空海は景教や聖書の影響を受けているのか?
真言密教の聖地といわれる和歌山県高野山が816年に開創して2015年で1200年を迎え、多くの人が訪れ、遍路巡礼者や「南無大師遍照金剛」と唱える空海信者が増えています。しかし密教や空海の言葉には聖書の教えに似たものがあることが分かります。
多くの日本人は、聖書の言葉に魅力を感じます。昔から思想家、宗教家、会社経営者らが聖書の言葉を活用している例があります。古くは空海(774~835)、江戸時代には平田篤胤(1776~1843)、明治以降には出口王仁三郎(1871~1948)、松下幸之助(1894~1989)などが知られています。
空海は唐に渡り、キリスト教のアウトラインを知った!?
空海は、804年に遣唐使として入唐し、およそ2年間、都の西安を中心に遊学し密教を修得しました。彼は漢文や会話の漢語もできたことから、景教を通してイエス・メシアや聖書の教えに接したのではないかとも考えます。その頃、中国全土では景教が盛んに活動し、西はバグダッド、東は西安の両都市が栄え、シルクロードで日本、中国、中央アジア、ペルシアやローマとの交易も盛んでした。景教会堂の大秦寺は西安城内西の義寧坊区にあり、景教碑も781年に建ちました(当時の会堂や役所は「寺」と呼ばれ、意味は人々が集う所。今では仏教用語として使われていますが、中国では昔から宗教施設を景教大秦寺とかイスラム会堂を清真寺と呼んでいます)。
当時の景教徒たちは四方八方に住み、集会は様々な場所で行われていたと考えますと、誰でも景教徒たちに出会うことができ、質問もできる状況にあったと思います。ですから、漢語ができる空海は聖書の教えについて知り得たと考えます。なぜなら、密教には聖書の教えに似た部分が多くあるからです。空海は西安で師の恵果(746~806)から密教を学び、その後継者となり、帰国して独自の日本密教を展開しました。
作家の陳舜臣(1924~2015)は『曼荼羅の人』(1984年)で、空海がゾロアスター教やイスラム回教徒と出会ったことや、景教指導者の景浄に出会い、聖書の教えを聞いたことについて書いています。『長安の夢』(1985年)においては、「少なくとも空海はキリスト教のアウトラインは知っていたと思う」と書きました。
作家の司馬遼太郎(1923~1996)は、『空海の風景』(1975年)で、景教寺院を訪ねれば景教碑を見たであろうとか、キリスト教について聞いたであろうと書きました。
『空海辞典』(金岡秀友編)の景教の項目では、「景教が密教および空海に直接・間接の関係があることは明らか」と書いています。
両者の背景と土台が違う中、洗礼式に似た灌頂(かんじょう)儀式、洗礼による罪の赦しと灌頂による罪の赦し、主イエスを信じた者の即座の救いの信仰義認と即身成仏の教え、神が共におられる恵みと同行二人の教え、空海の兜率天(とそつてん)への昇天・終末に再来するとの教えとイエス・メシアの昇天・再臨の教えや信仰、十字を切ることと中印など似ている部分もあり、それらを取り上げて書いていきたいと考えています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、2014年、イーグレープ)
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川口一彦(かわぐち・かずひこ)
1951年、三重県松阪市に生まれる。現在、愛知福音キリスト教会牧師。日本景教研究会代表、国際景教研究会(本部、韓国水原)日本代表。基督教教育学博士。愛知書写書道教育学院院長(21歳で師範取得、同年・中日書道展特選)として書も教えている。書道団体の東海聖句書道会会員、同・以文会監事。各地で景教セミナーや漢字で聖書を解き明かすセミナーを開催。
著書に「景教-東回りの古代キリスト教・景教とその波及-」改訂新装版(2014年)、「仏教からクリスチャンへ」「一から始める筆ペン練習帳」(共にイーグレープ発行)、「漢字と聖書と福音」「景教のたどった道」(韓国語版)ほかがある。最近は聖句書展や拓本展も開催。
【外部リンク】HP::景教(東周りのキリスト教)