国内最高齢の女性映画監督として現役で活躍し続け、1月13日に92歳で亡くなった山田火砂子(ひさこ)さんの「お別れの会」が25日、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会(東京都新宿区)で開かれた。
1932年生まれの山田さんは戦後、女性バンドのメンバーや舞台女優として活躍。72年に、夫となる映画監督の山田典吾さん(98年死去)が創業した映画製作会社「現代ぷろだくしょん」に参加したことで、映画に携わるようになる。最初は主にプロデューサーとして活動し、監督としてデビューしたのは64歳の時。知的障がいのある長女との半生を描いたアニメ映画「エンジェルがとんだ日」(96年)が、デビュー作だった。その後、男女平等や社会福祉をテーマにした映画を作り続け、監督として計10作品を手がけた。
しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。典吾さんの死後、多額の借金が残ったことで自宅を失い、現代ぷろだくしょんの代表作「蟹工船」(53年)のフィルムさえ売り払わなければならなかった。お別れの会では、こうした苦難に直面しながらも、映画への情熱を絶やすことなく走り続けた山田さんの生涯が映像で紹介された。
昨年公開の「わたしのかあさん—天使の詩」を含め、山田さんの3作品で音楽監督を務め、5作品で主題歌を歌った歌手の朱花さんは、病室に泊まり込み、最後の3日間を共に過ごした。この日は、2人の思い出を語るとともに、病室で共に聞いたという賛美歌「アメイジング・グレイス」を独唱。また、「わたしのかあさん」の主題歌を、同作に出演している障がい者専門の芸能事務所「アヴニール」のキャストらと共に歌った。

続いて、山田さんの作品に出演した俳優3人が、それぞれの思い出を語った。「母―小林多喜二の母の物語」(2017年)など2作品に出演した寺島しのぶさんは、「監督・山田火砂子というよりは、人間・山田火砂子に魅了されました。とても良い出会いをさせていただいたと思っています」と、映像でメッセージを寄せた。
「人生100年の時代と言われていますが、監督のように魂を燃やして、最後の最後までエネルギー120パーセントで生きる人は、なかなかいないと思います」。「われ弱ければ―矢嶋楫子(かじこ)伝」(22年)など3作品に出演した渡辺いっけいさんは、山田さんの映画に対する情熱に触れた思い出を話した。
山田さんのプロデューサー時代の作品である「死線を越えて―賀川豊彦物語」(1988年)以来、さまざまな作品に出演してきた小倉蒼蛙(そうあ)さんは、山田さんの作品の根底には、社会の不正義に対する怒りがあったと話した。しかし、その怒りを笑いと優しさで描いていたとし、「あなたが障がいのある子を生んだことや、クリスチャンであることが、人々に感動を与え続けた根源であったのだと思います」と続けた。

説教は、淀橋教会の峯野龍弘主管牧師が、新約聖書のフィリピの信徒への手紙3章13~14節から「ひたすら、一筋に」と題して取り次いだ。峯野牧師は、クリスチャンであった山田さんの人生を一字で表せば「愛」だと述べ、その愛を世に伝える使命感を持って一つ一つの作品を作り続けてきたと語った。
また、その愛とは、感情によって変化するようなものではなく、聖書に記されているアガペーの愛だったと強調。アガペーの愛とは、「相手のために、しかも自らに敵対し不利益を与える相手のためにさえ、あえて自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のためにささげ仕えていく、何一つ見返りを期待しない心と生きざま」だと話した。そして、障がい者など、社会的弱者を排除するのではなく、彼らと共に歩むことで美しい共生社会が生まれるとし、このアガペーの愛に生きるよう勧めた。

説教の後には、「一粒の麦―荻野吟子の生涯」(2019年)など3作品に出演した俳優で、クリスチャンでもある松木路子さんが、山田さんに向けた最後の言葉を語った。松木さんは、山田さんが生前、撮影地でもある淀橋教会でお別れの会を開くことを希望していたことや、作中で使用する賛美歌や台詞を一つ一つ吟味していた姿を回顧。「素晴らしい力、勇気、そして笑顔を通して、クリスチャンとして福音を述べられていた」と話した。
そして、元上智大学学長のヘルマン・ホイベルス神父が晩年、母国ドイツの友人から贈られたとして紹介した詩「最上のわざ」を朗読。「老いの重荷は神の賜物」「全てをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と」などと歌う詩で、松木さんは朗読後、「監督、ゆっくり休んでください。ありがとうございました」と別れの言葉をかけた。

最後には、遺族代表として、次女で現代ぷろだくしょんのプロデューサーを務める上野有(あり)さんがあいさつに立った。山田さんは映画一筋の人生だったものの、「たかが映画、しょせん映画」と口にすることも度々あったという。それでも、「生きるのがつらく、死のうと思っていたけど、この映画を見てもう一度頑張ろうという気持ちになりました」と言ってくれる観客の声を何度も耳にしたことを話した。また、山田さんが既に11作目となる作品の脚本を完成させていたことも明かし、今後も映画製作を続けていく意欲を示した。