イエス様は、神の子であられながら、2千年前にこの地にお生まれになり、私たちの罪のあがないのためのいけにえとなられた。また同時に祭司となって私たちをとりなし、復活されてなお弟子たちを励まし、たくさんの聖書記者をこの地に残してくださった。
この世界は、目の弱い羊のように迷いやすい私たち人間にはあまりに難しくできている。いろいろな価値観を持つ人たちに囲まれると、何が正しいのかも分らない。どっちに向かえばいいのかも分からない。私たちはすぐに、迷える羊となってしまう。
しかし、神様が与えてくださった聖書には、この世界を生きる道しるべが書いてある。クリスチャンになっても、いろいろな解釈をする牧師先生や神学に迷うこともあるかもしれないが、聖書を自分で読み、神様に祈り、訓練されてゆくと、人ではなく神様ご自身に導かれていけるようになるという。
神様は完全な愛であり、完全な義であり、故に人はそれを表すことはできないが、聖書は、その確かな道明かりである。私たちの神様は、インマヌエル、共にあるお方である。
町では物価が高騰し、地域でも格差は広がり、政治不信は募り、社会不安にあふれている。寂しさにも似た不安が忍ぶ夜もある。しかし、私たちの主権者は、この社会や政治を超えて、全てのものの上におられる神様である。
神様は、「明日を思い煩うな」(マタイ6:34)と慰め、「空の鳥をも養う神様が、あなたがたの必要を分からないわけがない」(同26)と励まし、「白髪になるまで、あなたがたを持ち運ぶ」(イザヤ46:4)と約束してくださる。
主は、この社会から取り残され、不安の中で震えていた私を、導き出してくださった。その場所は、人間愛にあふれた場所であった。温かく優しい夫がおり、私の全てを引き受けてくれている。そして、教会には頼りがいのあるはつらつとした牧師先生がおり、敬愛する信仰の兄弟姉妹もいる。隣家の義父母は少し過保護気味にいつも心配してくれる。
先日、義母が大きな沼の遊歩道を歩いていたところ、転んで足をけがしてしまった。ようやく暖かくなった矢先であった。膝が腫れており、すぐに病院に行き、膝にたまった血を抜いてもらった。ようやく散歩に出られるようになったので、また転ぶことのないように、義父は押し車を用意した。
ある夜、圧倒的な幸せが私の寝室に充満していることに気が付いた。ここに「居場所」があるのだ。居場所とは、単なるベッドや机のある部屋のことではなく、誰かの心の中にあったのだ。私の存在を受け入れて、愛してくれる人がいる。それこそが、居場所であったのだ。
私の育った家には自室もあったが、「居場所」がなかった。親も自分たちのことでいっぱいいっぱいで、つらく当たられることの方が多かった。私は自分自身の殻の中に閉じこもって過ごした。
それから早くに家を出、ずっと、私は探していたのだ。自分の「居場所」を。自分で借りた部屋の中には、家賃を払う限りはいてよいが、居場所ではなかった。仕事場の中にも、趣味のサークルの中にも、親しくしている人たちの中にも見つけられなかった。自分がこの社会の中で、孤立していることにすら、気付いていなかった。
「居場所がある」。幸せが充満し、愛に圧迫されている。人とのつながりも大切であるが、同時に、私たちの本当の居場所は、神様の心の中にこそあるべきである。イエス様がそうであったように、神様と向かい合う中で、私たちは大いに神様と語らい、愛される信仰を求めるべきである。
いつか、夫に先立たれ、私も一人で暮らすかもしれない。貧困や孤独の心細さに直面することもあるかもしれない。地域教会とはそのような恐れの中で大きな役目を担っておろう。そして、何より私たちは神様の心の部屋に住まい、愛の圧迫、幸せの充満を感じていたいものである。
(絵・文 星野ひかり)
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星野ひかり(ほしの・ひかり)
千葉県在住。2013年、友人の導きで信仰を持つ。2018年4月1日イースターにバプテスマを受け、バプテスト教会に通っている。
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