夫が職場に復職し、以前の日常が戻った。手術によって口内のスペースが狭くなったため、夫でも食べやすいお弁当を毎朝作り、ごみを出し、夫を駅まで送ってゆく。
夜が明けたばかりの真冬。エンジンが温まるまで時間がかかり、白い息を吐きながら車を走らせる。車窓に開ける空の色は藍とも青ともつかぬ神秘的な色であり、空に伸びる枯れ木の枝のシルエットの完全性は神様を思わせる。
「光あれ」。神は初めに光を創造された。それはこの世界を照らす輝きであり、イエス様ご自身であった。「私は道であり、真理であり、命である」。イエス様はご自身をそう現された。
夜闇が晴れて光が毎朝訪れるたびに、イエス様の御顔を見るようである。「今日も頑張るんだよ」。温かさを含んだ光はそう励ましてくれるようである。
「光は闇の中で輝いている」とある通り、真昼の明るさはどこかしら白々しく、真夜中に祈りの中に現れる光、明け方、滲み出す光の中に、より聖霊様の息吹を感じる。私たちは闇があるからこそ、光が分かるのではあるまいか。この世界が混沌(こんとん)とし、争いやまず、人の心にも暗がりが忍ぶからこそ、光が、この方が、イエス様が分かるのではないだろうか。
イエス様の十字架は闇の世のただ中に輝き、たたずんでいる。私たちの人生も闇との戦いである。
「あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい」(1ペテロ2:11)
「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」(ローマ2:7)
人生はこの闇の世と、そして自分の心の中に忍ぶ闇との戦いである。この肉体が罪に属性し、望む善ができ得ないというパウロの告白にうなずくばかりである。
しかし、嗚呼(ああ)十字架よ。イエス様の十字架は私たちの罪を贖(あがな)われた。ただこの十字架を見上げて、私たちは生きるばかりである。ぶざまなばかりの歩みだが、なんとか十字架にしがみつこうと暴れながらもがいている。
肉の欲のままに放縦に生きていたころを、懐かしく思うこともある。私は孤独であったし真実の一つも知らなかったが、わずかな肉の快楽にしがみついては生きる意味を取り戻すように生きていた。
神を知らぬ存ぜぬの、肉の欲の日々は、上澄みだけは美しさを取り繕う。偽物であるからこそ、見栄え良く、うわべだけは取り繕うものである。しかし、もはや取り繕う力も失ったころ、神様は憐(あわ)れんで、その懐に招いてくださった。
そして今も、この破れだらけの歩みを見守り、応援してくださっている。
朝5時に起きて、夫でも食べやすいホットサンドと卵焼き、野菜炒めをランチパックに詰め込み、大きなハンカチで包む。まだ暗い中を白い息を吐きながらごみを出し、車のエンジンをかけてわずかでも車を温めておく。
先日久方ぶりに足を延ばして行った上野公園では、何人もの路上生活者の方たちが陽だまりで暖を取っていた。真冬の夜、彼らはどれほどの寒さをこらえているのだろうか・・・。野生の動物たちはこの寒空の下、どこで憩うているのか。明日からまた一段と寒くなるという・・・。
ハンドルを握ったまま思いをはせ、薄紫色の空を見上げて祈りつつ10分ばかり車を走らせて駅前に着く。夫は力こぶを作って「今日も頑張るんだよ」と私を励まして降りてゆく。そして一日、お互いの持ち場で働くのだ。
日常の営みとは、厳粛なるものである。
昨年は夫のがんが見つかり、できる限りの手を尽くした。私も何度も入院し、大変な一年であった。昨年の大みそかに夫婦で一年の振り返りをしたときに、まざまざとよみがえる苦難の日々に「思い出したくもない!」と、わっと泣いてしまった。
神様は、私たちがこの世で苦しみに遭うことは常だと言われる。「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちるほかはない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変わるであろう」(1ペテロ1:7)
私も病にあるからこそ、病の恵みも苦しみも分かるようになった。そして夫ががんになり、かけがえのない人を失うかもしれないという骨まで震えるような思いを知り、同じ苦しみにある人たちに思いをはせた。
この日常のありがたさをかみしめる。夫が健康に今日も笑顔でいてくれることの素晴らしさ。見栄えはさほど良くないが、ここに真実がある。
当たり前とおざなりにしていた、日常という厳粛な歩みよ。
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ところざきりょうこ
1978年生まれ。千葉県在住。2013年、日本ホーリネス教団の教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、千葉県に移住し、柏市のバプテスト教会に通っている。※旧姓さとうから、結婚後の姓ところざきに変更いたしました。