(※ペンネームを改めさせていただきました)
幼いころ、お母さんが真冬にあかぎれだらけになりながら、台所で水仕事をしていた。その後ろ姿は、悲壮感にあふれていた。ついにガスの瞬間湯沸かし器を買ってからも、その悲壮感は変わらないものであった。テーブルの上に積み上げられた洗濯物。陰りのある表情で、永遠と終わらぬ家族5人分の家事をする母の姿に、喜びはなかった。
「またか」「どうせお前は」。つど舌を鳴らす癖のある父親は、日中いつも不満げで、泥酔して上機嫌になる夜とは別人のようだった。よく泣いていた母を慰められる、良き理解者になろうと背伸びをしていた私は、今であればヤングケアラーといえたかもしれない。
17歳で一人東京に出た私を、母はどこかうらやましそうな目をして見送った。あの鬱屈した感情で破裂しそうだった家を出て、自由に生きることを選んだ私を、母はうらやんだかもしれなかった。
そんな環境だったからか、私は結婚について夢を持つことができずに生きていた。そして前回書いたように、繁華街を渡り歩いてとうとう30歳が迫ったころ、繁華街にも私の居場所はなくなっていった。
そうなったときには死ねばいい。そんなふうに思っていたはずだったが、人はそんなに簡単に死ねるものではなかった。自殺未遂を企てても、まだ若いこの体は、息の根を止めるには相当な覚悟と労力を要するものであった。
積極的に生きる力も積極的に死ぬ力もなく、重い体を引きずって、まだ生きるが故に働いた。30歳になったころ、介護現場での仕事を目指した。ちょうどその時代は、精神科の多剤投与が批判され始めたころで、20錠以上だった毎日の薬も4錠まで減らしてもらえ、幾分か普通に生活できるようになっていた。
また、偏見を恐れて認めることができなかった統合失調症という病気を受け入れ始め、それ故に福祉の支えも与えられた。学歴のない私でも、人手の足りないとされる介護現場での仕事ならできるのではないかと思い、面接の門をたたいた。
介護施設で入居者の衣類を洗濯したり、居室の掃除をしたりする家事援助の仕事を始めたときに、涙が出るほどにうれしかった。こんなことでお金がもらえるのかと思ったのだ。繁華街とは違い、私自身の見栄えや面白さに値打ちをつけられるのではなく、シーツを整えたり、部屋を掃除したり、太陽の真下の広々とした屋上で洗濯物を干すことで、お給料がもらえるのだ。
真昼の太陽のまぶしい中、洗濯物を干していたとき、唇は「光よ・・・」と、まだ知らぬ神様を褒めたたえて歌っていた。そして、その何年か後に、料理作りも含まれる家事援助の仕事にありついた。入居者に料理を振る舞い、身の回りのお世話を手伝い、夜勤の巡回などをするのだ。
仕事中に家事仕事で手を動かしながら、こんな仕事をいつか愛する家族のためにできたなら・・・。ふとそんなことを考えていた。気が付けば、結婚について思いを巡らせていたのだ。
私は家事援助の仕事をするまで、掃除や料理が得意な人間ではなく、どちらかといえば、だらしのない暮らしをしていた。しかし、同じ仕事仲間のおばさんたちが、まるで母親のように料理のコツや掃除のコツを教えてくれるのだ。
私は従順な娘のようによく聞き、そしてかわいがられた。そんな職場の人たちの温かな支えがある中で、教会にも通い出して、イエス様を信じた。それから牧師先生の紹介で夫と出会い、結婚した。
夢がかない、今は家事仕事や石鹸づくりをして日々を暮らしている。調子が優れないときのために、自動掃除機や食洗機、衣類乾燥機もそろえたため、家事はずいぶん楽である。愛する隣家の義父母を含む、大好きな家族のための食事作りは、毎日の大きな張り合いである。
実母も、今では家をきれいに片付けて、賛美の中で暮らしている。いつかの彼女に漂っていた悲壮感は今やなく、柔らかな皮膚の奥に、多くの悲しみに耐えた人の持つ深い優しさを宿している。
結婚し、家庭を持ったからといって、誰もが幸せになれるわけでもない。実母のように結婚に後悔をした人たちも多いだろう。その苦しみと出口のない思いたるや、想像するに余りある。
物価が高騰する昨今、小銭を集めてその日の糧を得る家もあるだろう。生活苦は、家庭をギスギスときしませる。格差の開きは、人の心に惨めさという暗い影を落とす。しかし、われらの神イエス様は、貧しき者、虐げられた者の友であった。
義父母は、おひなさまを押し入れから出して飾り始めた。おひなさまは、娘たちの幸せと健康、そして結婚が恵まれるようにと願いを込めて飾るという。
誰もが愛情に恵まれて育つわけではないし、誰もが幸せになれる世界でもない。苦しみの中にある女性たちが救われるように、おひなさまを見上げながら祈るばかりである。
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星野ひかり(ほしの・ひかり)
千葉県在住。2013年、友人の導きで信仰を持つ。2018年4月1日イースターにバプテスマを受け、バプテスト教会に通っている。