夫の病院へ定期健診に行く途中、枯れ木の中に、昨年見上げ続けた桜の木を見つけた。昨年のお花見は、毎日の夫のお見舞いの行き帰りに見る、坂道の途中に覆いかぶさるように枝を広げるこの木の桜であったのだ。
健診の結果、術後の経過は順調。寒空に白んでそびえ立つ立派な病院を見上げる。懐かしい風が吹き、思い出を運ぶ。この4階の病室で、かさぶただらけの夫の顔をぬぐった。幾つもの管につながれながらも、夫は気丈だった。夫のたくましさに支えられながらも、私は統合失調症の再発で3カ月以上入退院を繰り返し、夫に寄り添ってあげることができない日もあった。
忍耐は練達を生み、練達は希望を生み出す。また、私たちの信仰は火の中で精錬される。そう聖書にあるが、この病の経験はまことに世の苦しみの火に投げ込まれるようであった。
聖書は、クリスチャンになってもなお、私たちはこの世の苦しみに遭うが、同時に、絶えず喜べるほどの希望が与えられていることを教えている。それは、最後には御国に行って喜べるというだけにとどまらず、この地上にあって、どんな艱難(かんなん)の嵐の中でも喜べるほどの希望だという。
夫婦の過酷な病の経験を通して、たくさんの人に祈られ、支えられていることを実感した。牧師先生が励ましてくださった言葉を思い出す。「年を重ねることは、人生を生きる知恵も同時に与えられるものですよ」。だからたとえ、今行き先が見えず、最後まで走り切れるか自信がなくとも、いずれそれすら恐れなく生きられる日が来るのかもしれない、と。
まだ、心の傷の故に、涙にぬれ、心ふさぐ日もある。暗い過去を思い出し「どこに神様がいたのか!?」「この世界には、神様のおられない暗いひずみがあるのではないか?!」と思ってしまうこともある。
しかし、例えば幼いころ、また、繁華街で働いていたころ、私の心は悲鳴を上げていたが、神様を求めていただろうか。私はいつの間にか無神論者に近い思いで、死んだら自分はいなくなればいいだけだと思っていた。だから、生きているうちに、好きに楽しく生きただけ勝ちだと思っていた。
あとのことや人のことまで考えられる心の余裕もなかったし、どうでもよかった。もしあの頃に神様を求め、神様に叫んでいれば、確実に神様はその御顔を見せ、手を差し伸べてくださっていただろう。しかし、私は神様を求めなかった。
「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ1:20)
そう聖書にある通り、被造物の全てに神様の神性は現れている。幼いころは誰しも、木々や雲、空に言いようのない感動を覚えていたはずである。しかし、この世の価値観に染まってゆくと、木々にも、雲にも、空にも心を揺り動かされなくなる。気付けば、興味の対象は自己中心的な思いから欲するものに染まってゆくのだ。
今も、長く神様のいない世界で生きていたときに付いた傷が心に、からだに残っている。しかし、聖書に「あなたがたの会った試練で、この世の常でないものはない」(1コリント10:13)とある通り、私の遭った苦難は決して珍しくも特別でもなく、たくさんの人が同じ苦難を通り、今も苦しんでいることを知った。
イエス様は決して、私のように後ろ暗い過去を持った者も見放されない。イエス様は学のない漁師を弟子とされた。娼婦や取税人、罪人と呼ばれた、社会的にも後ろめたい人たちに囲まれて、立派な身なりのパリサイ人とやりあった。立派な経歴もなくてよいのだ。やぶれかぶれの私のままで、イエス様に付き従ってゆく心だけでいいのだ。
社会不安は募り、明日も見えない思いは社会全体を暗く包み込んでいる。しかし、神様がおられる。絶対的におられるのだ。
まだまだ苦難の火に投げ込まれることもあるだろう。しかし、それが私の生きる力を鍛え、信仰を強め、主のご臨在のあふれる日々を生み出すことを信じている。そしてまた、この世の価値観に染まることはせず、いつも被造物の全ての中に神様の神性を感じ、心揺り動かされて生きてゆきたいと思うのだ。
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星野ひかり(ほしの・ひかり)
千葉県在住。2013年、友人の導きで信仰を持つ。2018年4月1日イースターにバプテスマを受け、バプテスト教会に通っている。
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