皆さんは、キリスト教弁証学という学問をご存じだろうか。私は、米国の大学院でこの学問に出会ってから、キリスト教について学ぶことが楽しくて仕方がない。キリスト教弁証学とは、キリスト教の正当性を証明しようとする学問であるが、まさか自分がこんな哲学的な学問に興味を持つとは思っていなかった。特に興味深いのは「悪の問題」である。悪の問題とは、「神が愛であり全能であるなら、なぜ神はこの世に悪を許すのか」という問いである。これは無神論者だけでなく、私たちクリスチャンも直面する問題ではないだろうか。誰でも一度は「神様、あなたは本当にいるのですか」と問うたことはあるのではないだろうか。
仏教の悪 VS キリスト教の悪
日本では、多神教、アニミズム、儒教、自然崇拝などが混在した「ぼやけた宗教観」が、今でも人々の間に根付いている。これは世界でも珍しいことであるが、日本人に宗教性がないということではない。お盆や初詣など、宗教的な習慣は今でも続いているし、願い事を神に託す人はたくさんいる。私はかつて東京の新宿に住んでいたが、酉(とり)の市の日には商売繁盛を願う人が花園神社に集まり、街中では熊手を買った人々の姿をたくさん見かけた。東京で受験の合格祈願といえば、今でも湯島天満宮は人気がある。困った時の神頼み感は拭えないが、神を全く信じていないということではなさそうだ。
そんな独特の日本社会の中で最も影響力があるのは仏教だ1。「世界は空虚で実体がない」と教える仏教に、日本人はどこか共感するところがあるのだろうか。元僧侶で後に牧師になった松岡弘一氏は、著書の中で、初めは全て善であったと聖書が教えているのに対し、仏教は全て虚しいと否定的に見ている、と両者の違いを述べている2。
松岡氏は、神が空虚な世界ではなく、美しい世界を創造したという聖書の言葉に感動し、キリスト教に興味を持つようになったという。イエスが生まれる約500年前、釈迦は人間の欲望や執着がその苦しみの根源であると悟った。そして、人間は欲望や執着から逃れられないので、苦しみを避けるためにはそれらを捨てなければならないと結論付けた。釈迦のテーマは「苦しみからの解放」である3。仏教用語である「悟り」の考えは、この世の苦しみから私たちを救ってくれるように思える。
反対に、聖書の「神は愛である」「神は全能である」という記述は、この世の苦しみの存在と矛盾しているように思われる。世界的に著名な英国人作家C・S・ルイスは、著書の中で、苦しみや悲しみを経験したときに感じる感情は「神はどこにいるのか」であると述べている4。私も過去にキリストから離れて、自殺しようとしていた時期がある。その際に持った感情は、まさしく「神はどこにいるのか」であった。
全能である神が人間を愛しているにもかかわらず、この世に悪や苦しみが存在することは、私たちに神の存在を疑わせる。そうなると、現代人には仏教的な考えの方が理にかなっているように見えてくる。実際、米国の著名な調査機関であるピュー研究所によると、北米の仏教徒の数は、2010年の390万人(人口比率1・1%)から、2050年までに610万人(同1・4%)に増加すると予想されている5。
ユダヤ人心理学者のジョナサン・ハイトも著書で仏教について書いており、仏教の考えに引かれていたことがあると告白している。彼は、ブッダ(釈迦)は過去3千年間で最高の心理学者の第一候補になると考えていた6。しかし最終的には、それが間違っているかもしれないと考えるようになり、無神論者となった。
苦しみは本当に悪なのか
キリスト教弁証学者たちは、聖書の矛盾が起きてしまう問題の根本原因は、悪の定義であると考える。そして、私たちにこう問いかける。「そもそも苦しみは本当に悪なのか」と。
米国のキリスト教弁証学者レベッカ・マクラフリンは、泣いている赤ちゃんに与える予防接種や、小児がんを患った子どもに激しい副作用を伴う抗がん剤治療を施すことを例に挙げ、この悪の問題を説明している。
「全ての親は、時として、自分の子どもに苦しみを与えなければならないことを知っているのです7」
他にも、苦しみが益となる例は幾つもある。ジムやサウナ、ダイエットなどは、筋肉痛や喉の渇き、好きなものを食べられないといった、一種の苦しみや痛みを伴うが、それは自分の努力の跡を感じられるものとなり、快感ともなり得る。苦しみが成長に役立つこともある。私には息子が一人いるが、妊婦生活や出産の苦しみや痛み、乳児時期の世話で疲労困憊(こんぱい)した経験は、私が成長するために必要なものだった。子育てを経験した人の多くは、自分たちが子育てから学ばされたことを知っている。
また、時として悪は、私たちが社会に役立つための機会をつくることもある。私は米国の大学で心理学を学んでいたとき、心理カウンセリングの一手法であるグループミーティングに参加したことがある。私が参加したのは、ドメスティックバイオレンス(DV)の経験者やその家族が参加できるオンラインのミーティングだった。参加者は本名を明かす必要はなく、ニックネームで呼び合っていた。全員、担当スピーカーの話をただ聞くだけで、誰もコメントはしない。彼らは、悲しみや痛みを分かち合うことで、互いに支え合っている。見知らぬ者同士が、互いに寄り添っている姿から、私は大きな愛と癒やしを受けた。
このように、苦しみや痛み、悲しみ、その他私たちが悪と考えるものは、全てが悪ではないことが分かる。神は私たちの苦しみを無視するのではなく、私たちを愛しているからこそ、意図的に苦しみを経験させ、神との絆を強め、私たちが自分以外の人を愛するように導いてくださるのだ。実際、私は自殺しようとした苦しみがなければ、今ほどの神との深い絆はつくることができなかった。60歳で大学院に進み、ニューヨークで牧師になるという道もなかったかもしれない。
人間は神のロボットではない
しかし、無神論者の疑問はこれだけでは解決しない。なぜなら、神の全能性についての疑問は依然として残っているからだ。神が全能ならば、そんな面倒なことをする必要はないのではないかと彼らは言うだろう。全能の神は、人間を操ることも当然できるはずなのだから。しかし、私たち人間は、神のロボットのような人生を送らされて本当に幸せだろうか。
自分と親との関係を考えてみてほしい。もしも自分の親が「これが正しい道だから」と言って、人生のレールをプラレールのように引いてくれ、自分はそのレールの上を走る列車のようになったとしよう。私は、そのレールから絶対に脱線することなく、電池が切れるまでレールの上を走り続ける。確かに、それは安心であり、失敗や苦しみはあまりないかもしれない。しかし、そんな人生を心から「満足」だと思えるだろうか。私は愛する自分の息子に、そんな人生を送ってほしいとは全く思わない。
この問題は、キリスト教弁証学者たちの「自由意思」という考えで解決できる。神は愛する人間をロボットのように造らなかった。この考えは、4~5世紀に活躍したキリスト教哲学者で神学者でもあるアウグスティヌス(354~430)も主張していた。現代では、哲学者のアルビン・プランティンガ(1932~)も、その主張の第一人者であり、人間には特定の行為を行うか行わないかの自由があると言っている8。
確かに全能の神は、人間が悪を行おうとすると、それを阻止して善を行うように強制的に操ることはできるだろう。しかし、それを神は望まなかった。愛する子どもたちを強制的に善のレールに載せて、自分の思い通りの人生を歩ませるという選択をしなかったのだ。私は「自由意志は神が故意に取ったリスク」だとするキリスト教弁証学者のノーマン・ガイスラーの主張に同意する9。
自然悪はどう解釈するのか
では、人間の意思とは関係のなさそうな自然災害や病気などの悪は、どのように考えるべきか。私の幼なじみで、大人になってもずっと仲の良かった親友が、難病にかかり、現在植物状態にある。彼女は優秀で、人望も厚く、真面目に生きてきた人間であった。だから、その話を母から聞いたとき、私は神に思わずこう言った。「一体、彼女が何をしたというのですか!」と。
また、日本では地震などの自然災害が多い。家や家族を失った人々の報道を聞くたび、「神は何をしているのか」と問いたくなる。このような悪を、キリスト教弁証学者は「自然的悪」と呼ぶ。そして、先に述べた人間の意思による悪を「道徳的悪」と呼び、この2つを分けて考えるべきだと主張する学者たちがいる10。なぜなら、道徳的悪は人間の行動と思考から生じるが、自然的悪は地震や台風、洪水といった自然災害や病気などを指すため、悪の種類が違うと考えるからだ。
古代から、日本人は予測できない自然災害を引き起こす目に見えない力の存在を恐れてきた。自然災害は日本語では「天災」とも言い、自然界の悪は天罰または悪霊が引き起こすものと信じられてきた。これは、伝統的なキリスト教の考えと似ており、プランティンガのように「強力な非人間の悪魔の力が自然悪を引き起こす」というアウグスティヌスの考えを支持する学者もいる11。これは、一見あまり理性的な主張だとはいえないように見えるが、本当にそうだろうか。
現代人がスピリチュアルなものを全く信じていないわけではない。その証拠に、悪霊退治やおはらいなどの類が、日本では今でも行われている。欧米社会でもエクソシスム(悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出して、正常な状態に戻すこと)を信じている人たちもいる。
しかし、ここでまた私たちは新しい問いを持つべきだ。「自然災害や病気は本当に天罰なのか」と。
例えば、国連によると、気候変動とますます極端になる気象現象は、この50年間に自然災害の急増を引き起こしているそうだ12。肥満や運動不足、化学物質などは現代の病気の原因の一つとなっている。人間の貪欲と怠慢が病気や自然災害を引き起こすことが多いことは、既に多くの学者や研究者たちに認識されている。つまり、一見、自然の悪のように見えるものが、実は人間の自由意志の結果である可能性がある。自然的悪は神が人間に与えている「警告」だとは考えられないだろうか。
つまり、キリスト教弁証学の観点から見れば、悪についての結論はこうだ。
「全ての悪が悪であるとはいえない」
神はお造りになった全てのものを見られ、それは非常に良かったと言った(創世記1章31節)のだから、やはり神は完璧な世界を人間に与えたのだ。また、神は人間を愛するあまり、リスクを承知の上で人間に自由意志を与えた。それがこの世界に多くの悪を生み出した。そうなると、戦争、殺りく、公害、自然破壊、モラルの崩壊は、全て人間の堕落から来ていると主張できる。
SNSには、真しやかにうそが毎日投稿されている。そして、それが多くの人々に読まれている。私たちはそんな時代に生きているからこそ、常にクリティカル(批判的)思考を持ち、真実を追求しようとする哲学的姿勢が必要なのではなかろうか。私は今こそ、このキリスト教弁証学が日本におけるキリスト教教育に重要な役割を果たすと信じている。私はこの学問に出会わせてくださった私の主である神に心から感謝し、これからも研究を続けたいと思っている。そして近い将来、日本でも私の研究を披露できる機会が与えられるように祈ってもらえたら幸いである。
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