礼拝は霊的ではあるが具体的でもある
私は信仰を持ったころ、4年間ほどCS(教会学校)の奉仕をした。子どもたちの先生なので、勝手な都合で休んだりできないので、休みたい時もあったが続けることができた。CSの奉仕に続いて礼拝があるので、礼拝にも引き続き出席することができた。
教会を変わってから、奉仕らしい奉仕をしていないので、つい礼拝もおざなりになっていた。教会が約1時間電車やバスを乗り継いで行かねばならないこともあり、また些細なこと、例えば人間関係や、奉仕や、献金や、礼拝の目的意識等々が理由になったりした。要するに、知らぬ間に礼拝は、行っても行かなくてもよいくらいの価値しか持たなくなっていたのである。
もちろん、何かの恵みで非常な喜びが与えられ、心から自然に行きたくなることもあるかもしれないが、そう度々あることではないと思う。むしろ本心では、生まれながらの自分の心よりも、御言葉の言われるままに淡々と喜びを見いだして、続けている人の方が多いのではないだろうか。
「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)
しかし、信仰は個人個人のものであり、おのおの違う。皆が皆、こんな強い信仰の人ばかりとは限らない。私のように信仰が弱く、礼拝目的も揺らいできた人たちも多いと思う。神様はそういう人たちにも、はっきりした具体的な的を絞った目的を与えてくださる。私にとっては、本当につらい体験であり、いまだその試練の渦中にあるが、この試練を通して、実にさまざまなことを学び、礼拝に関しても明瞭なる目標を頂いた。(私のような者に、病気を通して、かくも超自然的な働きをしてくださった)神様の栄光をたたえるためである。これ以上の明確な礼拝目的があろうか。
「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです」(エペソ1:12)
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。