世俗的な考えをするのは、不信仰からか
どんなに熱心なクリスチャンでも、全く世俗的なことを思い浮かべもせず、ひたすら信仰生活を送ることはできない。また、全くぐらつくことなく、教理を保ち続けるということもあり得ない。
なぜ、改心後も世俗的なことを考えるのか。それは、人間は生まれつきクリスチャンになることはできないからである。多くは、というより全ては人生の途上でクリスチャンになるため、それまでは俗世の生活を送り、俗世の中で俗世の考えをしている。私たちは生きている間に決心をしてクリスチャンになるけれども、生きている限りそれまでの俗世の生活や思考を忘れることができない。記憶力を取り去ることはできないからである。
なぜ、改心後も信仰に疑問を持ったりすることがあるのか。上述したことと重なるけれども、私たちは人生途上でクリスチャン生活に突入するのである。あくまで人生途上で、である。それまで私たちは学校で、または社会経験の上で、近代的といわれる科学教育を、科学的知識経験を身に付ける。こういう思考体験は、信仰、神といった思考体験とは180度違ったものであり、相反するものである。しかし私たちは前述のように、記憶力を持つので、双方持ち合わせるという結果になる。
時として、クリスチャンになった後もこれらの古い考えに襲われたりすることがあっても、失望することはない。人間として生きているのならば、それは当然のことであるからだ。記憶という能力がある限り。
「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだす」(ローマ7:21)。これは、当然のことである。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ローマ7:25)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。