身の丈に合った信仰生活をする
私はもう1年近く病院に通ったり入院したりしているが、その時の病状に応じて、信仰も考え方もずいぶん変わるものだなあと思う。そう考えると、あまり大きなことは言えないなあと思ったりもする。しかし、私は自分に正直であって、その良しも悪しきも神の前にさらけ出し、神の前に背伸びしない自分、ありのままの自分を見てもらうことが大切だと思う。
背伸びした自分は、神様に頼らず、自分自身の力で虚栄を張っていることを神様はお見通しで、必ずや快く思われないだろうと思う。
信仰にアップダウンはあるけれども、信仰の成長には、時が必要である。神様により、自分自身をさらけ出すことにより、自分の信仰の程度をその都度教わり、また成長をお願いするのである。その信仰の確信によって、教会生活及び社会生活をすべきである。そういう確認なく、一時的に立派なことをしたとて、確固たる信仰の根拠がなくて何の意味があろうか。
新しい自分と古い自分が葛藤しつつ、信仰が成長していく。そういう過程もなく、信仰のみが高まるということはあるのだろうか。いつかはガラガラと崩れるのではなかろうか。そういう実質的な経過を経る必要があるからこそ、信仰には時が要るのではなかろうか。
古い自分を無視し、また無視し続けていくと、その人の信仰生活は神の国を思っているとは言いつつ、喜びのない信仰生活になる。なぜなら、古い人も新しい人も、この世に生きている限り、私たちの身体の中に同居しているからだ。あのパウロでさえ、自分の内に同居する古い人に手を焼いていたではないか。
逆に考えるならば、喜んで教会生活をできること、礼拝、献金、奉仕、社会の生活を喜んでできることが、自分の身の丈に合った信仰生活と言えるのかもしれぬ。
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ローマ12:3)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。