何のために働くのか
今回病人となるまで、自分の仕事についてあまりよく考えたことがなかったと気付く。成り行きで選んだところもあるし、自分がその時点で一生懸命考えたところもあるが、しかし自分の志す職業であったことに相違ない。その時点では最良の選択であった。
労働の意義が、しかし、いまひとつ漠然としていたと思う。いわゆる何のために働くのかということである。実質的なことには最低限満たされていたので、このようなことを考えるのであるが、私は今になってなぜ働くかという問題は、なぜ生きるのかというような問題と同じくらい根本的な問題であると思う。それは単に、生活費のためうんぬんというような問題ではないように思う。
聖書の中では、何カ所にもわたって労働についての記述がある。そして、① 一生働くこと、② 労苦という言葉が使われていること、③ 労働の中から幸せが得られる、というのが共通した記述である。
労働によってすべての人に富と財産が与えられ、自分の労苦を喜び楽しむことを許され、これこそが神の賜物であると記されてある。そしてこの喜びと楽しみは、神からのものであるゆえ、このことを悟った人はもはや働くことの目的とか意義とかを思い煩わず、生涯のことをくよくよ思わないと記されてある。「神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすること」(伝道者の書5:18)が好ましいことである。
幸せというのは、健康なうちは選択肢が多くて分かりにくいし、決めにくい。どこにあるのか、病気をしたりして選択肢が決められてくるとはっきりしてくる。はっきりせざるを得ないのかも知れぬ。今までのように、自分のいわゆる欲望を満たすことの中に幸せを見つけるということが疑問に思えてくる。それは必ずしも心を喜びや感謝で満たすことではないということに気付く。
神が示された道、神が許可された道、神が備えられた道、神が準備され賜物まで備えられた道・・・いわゆる神の喜ばれることをして、その中で幸せを得たいと思うのである。
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。