つれづれなるままに、赤ちゃんのおむつネタ
ご存知ですか? お母さんがほうれん草を食べて、赤ちゃんに白い母乳を飲ませると、赤ちゃんが緑色のウンチをすることを。それはもう見事に。先輩のお母さんたちからは聞いていたけれど、自分の目で初めて見た時は感動ものだった。つながってるんだ、この子と。これはもう私も、めったなものを食べたり飲んだりできないぞと思った。
この辺で読むのをやめる人は、きっと男性に違いない。うちの夫もそうなのだが、男性は自分の子どものでさえ、排せつ物や分泌物が苦手。これは母性愛とか父性愛とはまた別物で、男女の特性の違いではないかとひそかに思っている。
母親にとって、赤ちゃんのこの類のことは汚いお話ではなく、健康や発達を知る大切なバロメーターなのだ。だから母親同士の会話ではタブーでなく、受けるネタとしておおらかに盛り上がる。まずは冒頭に書いた母乳と赤ちゃんのウンチの不思議から始まり、保育園へ通うころには、夜おむつを替える母親が、「○○ちゃん、今日の給食は××が出たのね~」なんて嬉しそうに話しかけて、そばで夕食を食べている父親が「おい、やめてくれ!」と悲鳴を上げたりする。
公園デビューしたばかりのころ、息子A(長男)が滑り台で遊び始めた。階段を上がってはすべりを繰り返している。そのうちあるお母さんが「あっ!Aくん、あぶないよ」と叫んだ。ハッとAを見ると、滑り台のてっぺんの手すりにつかまり、顔を真っ赤にしていきんでいる。階段を上る時、お腹に力が入ると腸がよく動いて「もよおす」のだ。それのどこがアブナイの?って、子どもって、催してすっきりするともうゴキゲン(*^_^*)。そのまま、あとさき考えずに、滑っておりてしまうのだからして・・・。結果は、ご想像にお任せします。
あの時も、みんなで一斉に、「滑るなーーーっ!」「だめよ!」「そのまま!」なんて叫んだが間に合わず、Aはそのまま滑りおりてしまった。そして、おしりが気持ち悪いと泣き始める。私は、「しようがないわね」とかなんとか言いながらトイレへ連れて行き、バッグから必要なものを取り出して、手際よくおしりをきれいにしておむつを替え、何事もなかったように話の輪に入った。他のお母さんたちもそんなこととっくに経験済みだから、「どうだった?」「ものすごかった(*^_^*)」「うちもようやるんよ。滑り台登ったとこで、あれ」「お腹に力はいるんよね。で、本人はスッキリしてしゅーっと」「きゃっはっはっはっ」。
赤ちゃんや幼児に羞恥心がないのって、すごいことだと思いませんか? だから平気でお世話してもらえるのだし、こちらとしてもやりやすいし。おむつ替えるたび恥ずかしがられたらこっちも困るし。神様、上手にお造りになられたわ~。
このように、子育て中、親(特に母親)は原始的な時期を過ごす。当たり前のことだけれど、人間は物を食べて飲んで、排泄する生き物にすぎないのだということを学ぶ。でも、育てられた方は、大人になるとそのことは忘れてしまう。
向田邦子さんという脚本家のエッセイにこんなエピソードがあった。向田さんは、戦後間もないころ青春時代を過ごした。そのころの学生の話題といえば、ニーチェ(哲学者)だマルクス(唯物論者)だ、ハイネの詩、いいわね~という、知的であったりロマンティックなものが多かったそうだ。
ある日、ご家族の留守中に向田さんのボーイフレンドが遊びに来た。彼は向田さんにいいところを見せようとして、哲学や詩を語り始めた。向田さんも背伸びして、必死でその会話に応じていると、ジャストタイミングでやって来たのが<バキュームカー>。
知らない人がいるかもしれないので説明すると、昔のトイレは水洗でなかったので、定期的にバキュームカーが汲み取りに来ていた。外から汲むのだが、あれは家の内外にかなりな臭いが漂う。気取って会話していた若い2人は次第に居心地悪くなり、会話は途切れ途切れに、そして彼は帰ってしまった。
向田さんは、「昔のトイレはよかった。あの臭いは、自分が何ものでもないことを教えてくれた。どんな偉い人にでもそうでない人にでも『しょせん人間って、自分ってこういうものなのさ』と思い知らせてくれ、謙虚にしてくれた」という意味のことを書いておられる。「自分は何ものでもない」「食べて、寝て、排泄する、一生物にすぎない」。ほとんどの人は、大人になるとそのことを忘れてしまい、親の介護に直面して思い出し、そして自分が介護される立場になると思い知る。
なのだよ、息子たち。24歳、25歳になり、母さんを見おろしているけれど、母さんはあなたたちがどんなに偉くなったとしてもへっちゃらだ。ウンチも何もかもひっくるめてあなたたちを愛し、そのたびきれいにして育てんだからねっ。
我が家に息子B(二男)が生まれて間もなく、息子A(長男)は少し早いけれど保育園へ通うようになった。そしてその秋、私は担任の先生から呼び出され、Aの耳の検査を勧められた。聴こえていないのではないか、とのことだった。
(文・しらかわひろこ)