ドライブインのコーヒー① 息子の言葉が出ない!
もう20年も前のこと。「明日は、高松行くよ」と私が宣言すると、息子A(長男)・息子B(二男)は、いつも歓声を上げた。
次の日、私は車の後ろに、ジュースにお菓子、絵本にカセットをいっぱい積み込んで、お昼に保育園まで迎えにいく。先生には連絡してあるので、すでに帰り支度を済ませた息子たちは、わくわくしながら教室から飛び出してきた。
高速道路に乗って約1時間、インターから10分で目的地に着いた。高松身体障害者リハビリセンターだ。
息子Aは、5歳まで言葉が出なかった。音は出るのだが、母音だけ。たとえば、「今日の保育園の給食でバナナが出たよ」というのは、「おおおおいうえんおううおうえああああえあお」となる。私を「おあああん」と呼ぶ。
表情も生き生きとしていたし、1歳半くらいの時、夫の祖母に、「アバアチャ(おばあちゃ)」と言ったことがあったので、安心していた。その後1年ほどしゃべらなくても「男の子だから。発育には個人差があるから」くらいに考えて、焦るまいとしていた。
2歳半の時、保育園の先生に勧められて、「念のために」専門医の検査を受けるために、高松身体障害者リハビリセンターへ行った。ちょうど湾岸戦争が始まった日で、カーラジオがずっと、米・英・仏の軍隊の侵攻を告げていた。私だって負けず劣らず不安を押し退けながら、敵地に乗り込むような気持ちだった。
検査してもらって、まさかと思う結果が出た。息子Aの耳が聞こえていないというのである。原因は、浸出性中耳炎。耳垂れも、発熱・痛みもなく、潮が満ち引きするように、耳の中に水がたまったり、乾いたりを繰り返す中耳炎、とのことだった。「乾いているときは周囲の音が聞こえていますが、水がたまると聞こえが悪くなる」。だから、「アバアチャ」と言った時は聞こえていた時期だったのだと分かった。
即、言語訓練の先生が紹介され、私は2週間に1度、高松へ通うことになった。同時進行で、地元の耳鼻科で中耳炎の治療も受けることになった。
通い初めのころが一番苦しかった。Aの中耳炎に気が付かなかった自分を責めながら、必死で運転して通った。これは、他のお母さんから聞いたことだが、「子どもの障害そのことよりも、夫の家族や教育委員会、役所関係の人との関わりで傷付くことが多い」という。私もそうだった。
保健所から、「子どもと遊ぶのが下手なお母さん。母と子のサークルに参加しませんか?」とズバリ印刷されたはがきが届く。市役所の検診のたびに保健婦さんから、「言葉掛けの不足が原因でしょう。もっとスキンシップを」と言われる。
反論したくても、目の前の我が子は実際言葉が出ていない。「母親失格」の烙印を押されているようでますます追い込まれ、私自身がいろいろな場で言葉を失っていった。
決定的だったのは、市の公的な機関の「言葉の教室」での出来事である。「簡単なテストをします」と呼ばれて、教師生活ウン十年というお年寄りの先生から、「A君のできることに丸を付けていってください。深く考えないで、さっさと付けてください」と用紙を渡された。言われるままに、Aができていることにはすべて丸を付けていった。
その先生は丸の数を数えてちょっと顔をしかめ、私の鼻の先で電話し始めた。相手は保育園の息子Aの担任である。
「今、お母さんに○○テストをしてもらったのだが、XX個以上、丸が付いている。これではA君はまるで正常だから、あなたがもういちど丸を付けてください」
あぜんとした。ああ! 未だに心残りなのは、たんかを切ってその席を蹴ってしまわなかったことである。その時はただ、自分の子どものことで丸を付けたのに、信じてもらえない。障害のある子を持つ母親の評価なんか無視されてしまうのか、という思いにつぶされていた。
障害児の母親は難しい。明るくしていれば「のんきすぎる」と言われ、一生懸命になれば、「もっと肩の力を抜いたほうが、子どものためにもいいよ」と注意される。どうすりゃいいのよ?と開き直ると、「障害児のお母さんは、もっと可愛くなくちゃ」と返ってくる。
それ以降、私はかなり長い間、とことん落ち込んだ。保育園の送り迎えで、他の母親と顔を合わすのがいやだった。Aの担任も信じられなくなっていた。
保育園をやめなかったのは、やめた後のことを考えたからである。再び入園したいと思っても、言葉がネックになって入れてもらえないかもしれない。他の子どもと遊ぶことは、Aから取り上げたくなかった。また、万が一Aの言葉が出なかったら、いずれ市の福祉のお世話にならなければいけない。そのことが、「言葉の教室」に対する私の憤りを封じた。
あの時期、私はどうして切り抜けられたのだろう。
第一に、私たち一家は、毎日曜日、キリスト教会に通っていた。礼拝中、私はよく泣いた。自分の弱さも醜い思いも全部さらけ出して神様の前に祈ることができ、大きな慰めを与えられた。また、教会のみんなが、Aの言葉のために祈ってくれていた。
第二に、夫が、冷静で淡々としていた。あのころ知り合った、障害を持つ子どもの母親の多くは言った。子どもに障害が発見された場合、父親が母親の育児のまずさを責める、あるいは、舅・姑と一緒になって、母親の血統の責任にすることが多い。非常に多い。一番受け止め、協力してほしい時期にそのように投げ出されたことは、一生傷や憎しみとなって残ると。しかし私の夫は、Aの言葉が出ないということをほとんど気にしていなかった。姑はともかく、夫は私について一度も非難がましいことを言ったことがない。感謝している。
第三に、福祉面で遅れているといわれている愛媛県I市を離れて、その点進んでいる香川県の高松身体障害者リハビリセンターへ通い、つながっていたことは大きい。
ある時、私はリハビリの先生に尋ねた。「私の関わり方の何がまずくて、Aがこうなったのでしょうか」。先生は、すぐにこう答えてくれた。「母親が原因で子どもに障害が現れるケースは、非常に稀なんですよ」。この答えは、私の気に入ったという以上に、私を落ち込みから救い、はばからず明るい母親に戻してくれた。
リハビリセンターには、私の悩みなど恥ずかしくなるような重度の子どもさんを持つお母さんもたくさん来ておられた。
ある日、息子さんを車椅子に乗せたお母さんと、自動販売機の前で一緒になったことがある。その息子さんは産まれてから24年間寝たきりで、風邪をひいてもたんを自分で出すことができず窒息してしまう。吸引のためリハビリセンター付属の病院へ通っているのだと、そのお母さんは語られた。
話している目の前で、息子が「ジュースが欲しい」とねだり、自販機から出てこないと泣き始めた。そのお母さんの笑顔を私は今でも忘れない。「あなたの子どもさんは、私の息子に比べれば、完璧ですよ」
前出の「言葉の教室」の老先生は、「高松身障者リハビリセンター行きをやめて、こちら一本にするように」と言ってきたけれども、私は耳を貸さなかった。自分のペースを取り戻してきていたのだ。「明日、高松行くよ」と言えば、大喜びするAとB。高松行きは、単に言葉のためばかりでなく、私と子どもたちのなくてはならないイベントとなっていた。
リハビリセンターで1時間の訓練を終えて、帰途につく。その途中、私たちはいつも府中というところにあるドライブインに寄った。山の中に開かれたドライブインには小さな公園があり、AとBはそこでおやつを楽しみ、走り回る。私はそのそばでコーヒーを飲んだ。
初めのころは、ドライブインの中の喫茶室でコーヒーを注文していた。けれども、Aのことで私は仕事をやめたし、高松通いも結構費用がかかったので、家庭経済がひっぱくしていた。それで、ポットにつめたコーヒーが私の相棒となっていた。
私は、ドライブインでの、このコーヒータイムが大好きだった。誰も知っている人はいない。Aの言葉をからかったり、びっくりしたように見たりする人もいない。人が見たら、ずいぶん幸せそうな親子に映ったはずだ。実際、幸せだったと思う。
コーヒーのお代わりも空になり、息子たちも走り疲れたころ、今度こそ私たちは家を目指した。息子たちは後部座席でぐっすり眠っている。そして私は、誰も聞く人はいない、対向車からも見えない、I市のインターまでの道のりを、号泣しながら運転した。
悲しかったからとか、不幸だったからとかいうことではなかったと思う。きざな言い方をすれば、あのひと時は、私の祈りの時だった。あれがあったから、次にリハビリへ行く時まで、めそめそしたり、Aや自分が不幸だと落ち込んだりせずに済んだのだ。周囲からの圧迫をも受け流すことができたのだ。それに、AやBとの生活は、けっこう楽しかったし。あの時期、私たち一家は本当に明るかった。
このシリーズのプロローグに書いた、「Aがふすまに青クレヨンででかでかと『あけただしめる』と書いた」こと、「Bが回転寿司で『めろんばいばい』」と叫び始めた」というのは、このころのエピソードである。
私はAの言葉が出るようにと願ってはいたけれど、もはや「出なくてもいいや」と、やけでも、開き直りでもない、ひとつ大きく天に抜けてしまっていた。
A自身も、保育園で友達とけんかした時、誰も理解できない大声で堂々とくってかかっていたそうだ。「Aくんは、ひるまない、明るい子です」と先生から言われた。私も、それまでのめそめそを抜け出して、「Aの言葉が出ないことを感謝します! それは、Aを通して、神様のご栄光が現され、教会全体の益となるためです。ハレルヤ!!!」と祈り賛美するようになっていた。
(文・しらかわひろこ)