神様は愛です
神様は、愛でもあられます。愛そのものであられます。だから、人間をとことんまで愛してくださるお方です。私たちも人を愛します。しかし、その愛は不完全な愛です。私たちの愛は、どちらかというと自分に都合の良い者を愛し、自分に役立つ者を愛する愛でしかありません。したがって、自分に利益をもたらさないと思ったら、その人を愛しません。もちろん、敵などとても愛せません。だから愛は奪うなどと平気で言います。しかし、それは本当の愛ではありません。本当の愛は、美しい者もみにくい者も、自分に役立つかどうかは無関係に平等に愛する愛です。太陽は、あの人はいい人だから他の人よりもよけいに暖かい熱を送ってあげようなどということはしません。いい人も悪い人も同じように太陽は暖かいのです(マタイ5:45)。神様は愛ですから、いつも良いものをいっぱいくださいます。
人間の愛は、受け入れられないと傷つきます。不安を与えます。しかし、本当の愛は、平安を与え、癒やします。自分を犠牲にしても愛する愛です。本当の愛は、与える愛であって、奪う愛ではありません。人間の愛の中で、最も美しい愛は親の愛だといいます。親は子どものためであれば犠牲をもいといません。自分の子どものために、自分の肝臓を移植して与えることさえできる愛です。たしかにすばらしいですが、これも意地悪く考えてみれば、自分の子どもだからできるのでしょう。もちろん、見ず知らずの人のために犠牲を払って愛する人もいますが、なかなかできることではありません。
愛は、もちろん甘やかすということではありません。両親は子どもを必ず叱ります。最近は、自分の思い通りにならないといって、暴力を振るう親もあって問題になっていますが、大抵の親は、子どもが良い子となって成長するように、子どものためを思って叱ります。子どもとしては、叱られなかったら良いのにと思うでしょう。でも、全く叱られなくって、好きなように放っておかれたら、その子は他人と同じであって、愛されていないのかもしれません(ヘブル12:8)。どんな人間になっても構わないから、放っておかれるのです。神様も、愛するがゆえに、人を困難な目に遭わせられることがあります。どうして、神様はこんな目に遭わせられるのだろうかと考える前に、私のためを思って訓練してくださるのだと感謝するようにしましょう。神様には、きっとそうする目的があるのです。
人間は愛に飢えています。愛がないと生きていけないのが人間です。最近は犯罪がどんどん増えていますが、それも、実は、愛が十分に得られないことから来ていることが多いのです。もちろん、お金もあった方が良いでしょう。でも、お金はなくても生きていけます。しかし、愛はどうしても必要なのです。愛がなければ、生きていけないのです。
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浜島敏(はまじま・びん)
1937年、愛知県に生まれる。明治学院大学、同大学院修了。1968年4月、四国学院大学赴任。2004年3月同大学定年退職。現在、四国学院大学名誉教授。専攻は英語学、聖書翻訳研究。1974、5年には、英国内外聖書協会、大英図書館など、1995、6年にはロンドン大学、ヘブライ大学などにおいて資料収集と研究。2006年、日本聖書協会より、聖書事業功労者受賞。2014年7~9月、ロンドン日本語教会短期奉仕。神学博士。なお、聖書収集家として(現在約800点所蔵)、過去数回にわたり聖書展示会を行う。国際ギデオン協会会員。日本景教研究会会員。聖書の歴史、聖書翻訳に関する著書・翻訳書、論文多数。