律法
人間は、罪を犯しましたので、神様にお会いすることができなくなってしまいました。でも、神様は人を愛しておいでですので、人間がもう一度神様と仲直りができるための約束を、モーセを通して人間(イスラエルの人たち)にお与えになりました。① 本当の神様だけを拝みなさい、② 親孝行をしなさい、③ 人殺しはしてはいけません、④ 他の人のものを欲しがってはいけません、⑤ うそをついてはいけません、というような有名な十の戒めを与えて、これを一つ残らず守れば、神様の子どもになれます、という約束をなさいました(出エジプト記20章参照)。
このように、イスラエルの民族を特別に選び、その人たちを通して、神様は人間が神様に従って生きる道を示してくださったのです。神様を心から信頼して、従い、また人間同士仲良くするようにとの教えでした。これを守ったら幸せに神様と暮らせるようになると神様はおっしゃいました。これは、律法といいますが、聖い神様が与えてくださったものですから、とても標準が高くて、罪のある人間にはとても守れないものでした。皆さんの中に、人殺しをした人はたぶんいないと思います。でも人を憎むことが、人殺しのもとになるのだから、人を憎んだら人殺しと同じだと言われたら、すみませんと言うより仕方がないですよね。私は人を憎んだことなどありませんと言える人は本当はおりません。
人のものが欲しいと思ったことはありませんか。あの人はいやだと思ったことはありませんか。うそをついたことはありませんか。実はそれだけで、神様の律法を破ったことになってしまいます。神様の律法を破った者は聖くありませんので、もちろん神様には会うことはできません。神様の罰が下り、死刑の宣告を受けるだけです。神様の判決は死刑だけです。不公平だと思う人もいるかもしれませんが、神様はそのくらい聖いのです。幸せを与えると言われたのに、幸せどころか、結局は死ぬ以外にないのです。せっかく神様が幸福の道を教えてくださったのに、人間は守れないのです。律法を神様が与えてくださったのは、実は人間が自分の力では神様の道を守ることができない罪人なのだということを徹底的に人に教えることが目的だったのです。偉そうに律法を守っているという人の方が実は、神様から一番遠いのだということがお分かりでしょうか。
他の宗教の中には、人間として生まれた以上は、もうそれは運命なのだから仕方がありません、人間はそういうものだと思って、あきらめなさいと教える者があるかもしれません。でも、皆さんはあきらめられますか。もう永遠に神様と会えなくてもかまいませんか。自分が、死刑囚であっても仕方がないとあきらめますか。また、別の宗教は毎日をまじめに人のために尽くしていくと、一つずつ自分の罪が消えてやがてきれいな心になります、と教えます。ですから、罪がなくなるために、一生懸命によい行いをしている人がいます。もちろん、よい行いをするのはよいことです。でも、よく考えてみてください。残念ながら、せっかく一つよい行いをして、一つの罪が消えても、逆にまた三つも四つも新しい罪を作ってしまうのが人間です。いくらよい行いをしても追いつきません。また、中には、いくらいくらお金を出せば、天国に行けるようにしてあげますよという宗教もあります。しかし、何千万円、何億円というお金を出しても、天国は買えません。聖書には、一人の命の値段は、地球全部差し出しても買えない、それよりも高いと書かれています(マルコ8:36)。そんなお金持ちはもちろんいません。それに、もしいたとして、それで買えるとしたら、お金持ちしか天国に行けないことになってしまいます。貧乏な人は、天国には入れませんと言っているのと同じです。それはおかしいとは思いませんか。神様はそんなえこひいきをなさる神様ではありません。
どっちみち、人間は、自分の力で聖くなることができないのです。聖書に豹にはきれいなまだらがついているけれども、これを変えることはできない。同じように人間も、自分の力で肌の色を変えたりできないと同じように、心にある罪を変えることはできないと書いてあります(エレミヤ13:23)。最近は、髪の毛を染めることがはやっています。ちょっと見ると本当に金髪かと思うように上手に染めている人もいます。でも、放っておけばもちろんやがて地の色が出てきます。もとまでは変えることはできません。韓国では美容整形がとてもはやっているそうです。でも、例えば、その人が結婚して赤ちゃんを産めば、手術で変える前の顔に似た赤ちゃんが産まれます。手術した後の顔のような赤ちゃんは産まれないのです。同じように人間の罪の性質は、上辺をどうよそおったとしても、やはり子どもに受け継がれていくものなのです。私たち人間はみんな罪を持っています。そして、それは子どもに受け継がれていきます。
身代わり
それでは、人間には罪から解放されて、神様と会える望みはないでしょうか。神様のくださった古い約束の中で、もう一つ身代わりということを教えてくださっています。私たちの汚れた罪を、動物に負わせて、身代わりにして、その動物を殺すことで、自分が罪から免れることができるのだと教えてくださいました。イスラエルの人たちは、毎年毎年、牛や羊の頭に手を置いて、自分の汚れや罪をそれに乗り移らせました。人間の罪を負わせられた牛や羊は神様の前で殺され、その血を神様にささげることで、その牛や羊に負わせられた人の罪の処理をしてしまうということです。どうせ、自分で律法を守ることによって、聖くはなれないのですから、このように自分に代わって犠牲になってくれるものが必要になるのです。そのようにして、本当は自分の罪は消えていないのに、動物が死んだことで、その人の罪がなくなったことにしていただき、神様と仲直りをする方法を教えられたのです。犠牲になる動物にとっては気の毒なことですし、人間にとってはまるで自分勝手なことのように思えます。しかし、自分で処理できなければ、代わりにやってくれるものを探すしかないのです。昔、日本では人間の形をした人形を作って、それに自分の悪い病気や悪い心を乗り移らせて、その人形を川や海に流して、これで自分もきれいになれたし、病気にならなくて済むと考えました。けれども、本当は牛を殺しても、また、人形を流しても、その人の罪はなくなることはありませんでした。これは、やがて本当に人間の罪を背中に負って人間の罪のために死んで、人間の罪を完全に処理することのできる方が現れるということの前触れだったのです。
本当にまじめなユダヤ人たちは、自分が罪を持っていることを知っていましたし、牛や羊では自分の罪の始末をすることができないことにも気が付いていました。そして、将来本当に自分の罪の始末を付けてくださるお方(それをメシアと呼んでいました)がやがて生まれてくると信じ、その方が来られるのを待ちわびていました。
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浜島敏(はまじま・びん)
1937年、愛知県に生まれる。明治学院大学、同大学院修了。1968年4月、四国学院大学赴任。2004年3月同大学定年退職。現在、四国学院大学名誉教授。専攻は英語学、聖書翻訳研究。1974、5年には、英国内外聖書協会、大英図書館など、1995、6年にはロンドン大学、ヘブライ大学などにおいて資料収集と研究。2006年、日本聖書協会より、聖書事業功労者受賞。2014年7~9月、ロンドン日本語教会短期奉仕。神学博士。なお、聖書収集家として(現在約800点所蔵)、過去数回にわたり聖書展示会を行う。国際ギデオン協会会員。日本景教研究会会員。聖書の歴史、聖書翻訳に関する著書・翻訳書、論文多数。