ここで著者は、読者たち(あるいは聴衆)に「私の子どもたち」と親しく呼び掛け、この手紙が書き送られた目的を述べています。そのことについては、すでに1章3節に「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです」と言われ、さらに5章13節で「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたにわからせるためです」と述べられています。ここで言われている本書の執筆目的は、「あなたがたが罪を犯さないようになるため」(1節)なのです。
前回の箇所で教えられたように、私たちキリスト者は、キリストとの交わりを中心に互いに交わりを保ちながら《愛の光の中を歩んでいる者》とされているので、「罪を犯さないようになる」ことが[当然のこととして]期待されています。ですから、ここで言われているのは当然のことであり、特別のことではありません。しかし、そう言われると、「そんなことはない。キリスト者でも罪を犯さないようになるのは無理だ」と、反論する方がいるでしょう。私自身も以前は、そのように反論していた一人だったのです。
では、この聖句は無理なことを要求しているのか。このジレンマを解決するため、ここで言われているのは、「罪を犯しても習慣的に罪を犯し続けるようなことがなくなる」という意味だ、といった説明が[もっともらしく]されています。その背景には、残念ながら、経験的に教会史を顧みるとき、罪を犯しているキリスト者と教会の存在を認めざるを得ない、という現実があるのです。
そもそも「罪を犯す」とは、どういうことを指しているのか。確かな基準が示されているなら、その基準に反することや達しないことが「罪を犯す」ことになります。イエス様は、その基準は「愛する」ことである、と示してくださいました。イエス様によると、すべての戒めは、「神を愛し、隣人を愛すること」および「互いに愛し合うこと」に集約されるのです。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)と言われました。この確かな基準に反して「愛することをしない(憎む)」のが、罪を犯している現実の姿なのです。
「憎む」ことは、人を(時には神を)うらむことから始まり、裁く、叱る、怒る、そして殺すという行為に発展します。こうした行為に引き込まれていくことが、罪を犯すことなのです。「愛する」ことは、人を思いやることから始まり、慰める、赦す、ほめる、喜ぶ、感謝する、そして生かす行為となって現れます。神を愛することは、神をほめたたえ、神を喜び、神に感謝することに他なりません。このように、人を思いやり、慰め、赦し、ほめることなどによって愛を行うとき、私たちは「罪を犯さないようになる」のです。
ところが現実の教会は、悲しいことに、憎しみに駆られて行動し、罪を犯してきたことが多くあります。それにもかかわらず、教会が存続を許されているのは、神の大きな哀れみのゆえです。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます」(1節後半)。この「弁護する方」こそ「義なるイエス・キリスト」です。この「義なるキリスト」が《かしら》として教会に与えられているので、教会も[教会に属する]私たちも多くの罪を犯しながら、赦され存続させられてきたのではないでしょうか。
続く2節に「この方こそ、私たちの罪のための―私たちの罪だけでなく、世全体のための―なだめの供え物です」とあるように、キリストが十字架において[罪に対する]神の怒りをなだめる犠牲の供え物となってくださったので、私たちの罪は赦され、教会も私たちも生かされているのです。「全世界のためのなだめの供え物」となってくださったキリストのおかげで、神の哀れみと赦しは全世界に[余す所なく]豊かに注がれています。そのことを身に染みて感じているのが、私たちキリスト者ではありませんか。
続く3~4節に「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません」と言われるように、私たちが神を知っていることは、神の命令を守っていることによって示されます。その「神の命令」とは、私たちが互いに愛し合うこと、ひたすら兄弟愛・隣人愛を実践することです。
それ以外のことを[特に]加える必要はありません。教会は、集まる人々に「神の命令」という名目で、それ以外のこと―聖書を読むこと、礼拝を休まないこと、献金をすることなど―を[加えて]求めたくなります。しかし、大事なのは「互いに愛し合うこと」であって、私たちはこれに徹すればよいのです。以前クリスチャン・アカデミー・イン・ジャパンの学長をされていた、ブルース・ヘックマン宣教師の言葉を紹介します。
「キリスト者になることは、教理を学ぶことだけではありません。また祈ることや礼拝をすることや規則正しい生活を送ることだけではありません。キリスト者になるということは、神のために生きること、私たちの生活すべてがキリストとかかわりを持つことです(編者注・6節に「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と勧められています)。そうすることで、妻や子に対する考え方も変わり、仕事に対する考え方も変わってきます。そして隣人や敵に対する態度さえも変わってきます」
私たちがイエス様によって知ることのできた神は、愛の神に他なりません。4章8節と16節に、「神は愛です」という言葉が繰り返し出てきます。神は、まさに愛を本質としているお方です。その神の愛をひたすら[豊かに]受けることが、私たちの信仰であります。それで信仰のあるキリスト者のうちに、神の愛が全うされ、満ちあふれるようになるのです。5節に、こう言われています。「しかし、みことばを守っている[愛の戒めを実践している]者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神の[愛の]うちにいることがわかります」と。
私たちキリスト者は、ただ愛を受けるための[信仰の]器にすぎません。私たちは何か自分が一生懸命していることが信仰である、と誤解していることがあります。信仰は、ただ神の愛を受けることです。神の愛を受けるだけの器になりきるとき、愛は時に春雨のように、時に夕立のように、止むことなく私たちのうちに注ぎ込まれます。その愛は[自然に]私たちのうちからあふれ出て、周りにこぼれていきます。それが、私たちが愛を行うということなのです。こうして私たちは、おのずから「罪を犯さないように」されるのではないでしょうか。
私たちキリスト者は、律法の世界から解放されて、福音の世界に移されています。律法の世界は、律法の役目の一つに罪を責めることがあるように、罪を責め立てる世界です。福音の世界は、罪を無条件に赦してくださる神の愛が支配する世界であり、同時に、そこに移された私たちが愛にあふれて「罪を犯さないようになる」ことにより、まさに律法を完成する世界でもあります。この福音の世界に生きるキリスト者が、満ちあふれる愛のゆえに、いつも喜び、すべての事について感謝するのは、自然の姿ではありませんか。
(『西東京だより』第67号・2010年3月より転載)
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