キリスト教の三大祝祭日の一つにペンテコステ(聖霊降臨祭)があります。ペンテコステは「50日目」を意味するギリシア語で、イースターから50日目に約束の聖霊が待ち望んでいた人々に降臨し、彼らは大胆に福音を語り始め、エルサレム教会から世界宣教が開始されました。降臨した聖霊は、私たちキリスト者にもれなく与えられます。その聖霊によって私たちは、イエス様が世に遣わされたこと、イエス様によって私たちがいのちを持つようになったことを、本当に知り、また証しすることができるのです。
神がイエス様を世に遣わされたのは、今から2千年余り前のことです。西暦紀元はイエス様の誕生から数えるのですが、計算違いがあって実際の誕生は紀元前6~5年であったようです。数年の誤差など気にしなければ、イエス様の誕生から2010年余が過ぎたことになります。するとイエス様の年齢は2010歳です。しかし、イエス様は30代で十字架につけられて死に、そして復活されたのですから、30代の若さを保持しておられるに違いありません。イエス様は30代の若さを保持して2010歳でいらっしゃる、と私は信じております。そういうイエス様のことをよく教えてくださるのが、聖霊ご自身です。
十字架にかけられる前夜、イエス様は弟子たちに語られた大切な講和の中で、「わたしは間もなく去っていくが、あなたがたを孤児にはしない。わたしがいなくなっても、わたしの代わりになる方が与えられる。それは父がわたしの名によって遣わされる聖霊である」と言われます(ヨハネ14:16~18、26)。このように聖霊は、イエス様のご名代として遣わされる方です。さらにイエス様は、「聖霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」と言われます(ヨハネ16:14)。この聖霊によって私たちはイエス様を本当に知り、イエス様によって罪を赦され、永遠のいのちを与えられ、神の子とされる恵みを確信することができます。聖霊は私たちの心に神の愛(キリストの愛)を注いでくださるのです(ローマ5:5)。
聖霊を与えられているので、「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」(13節)。なんと素晴らしい恵みでしょうか。これに優る祝福があるでしょうか。15節にも、「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」と言われています。「イエスを神の御子と告白するなら、その人は赦されます(あるいは救われます)」という言い方が、もっと一般的であると思います。しかし、ここでは「神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」と言われているのです。この霊的現実こそ、その人が赦されている(救われている)ことの確かな証拠と言えるのではないでしょうか。
私たちが受けている恵みを言い表すのに、続く16節の御言葉ほど卓越したものはありません。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」。なぜ、このように言えるのか。イエス様が神の愛そのものでいらっしゃるからです。4章7節以下は、聖書の中で最も素晴らしい福音の宣言ですが、それは8節とこの16節で言われるように、「神は愛です」という一言に要約されます。まさに「愛は神から出ている」のであり、愛こそ神の本性なのです。この神の本性である愛は、神が御子キリストを遣わされたことにより、私たちに明らかに示されました。キリストは、神の愛を現すとともに、聖霊によって神の愛を私たちの心に注いでくださいます。それで「愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられる」という恵みが実現するのです。
神の愛は、御子キリストにおいて神が私たち一人一人と共におられる、という現実によって示されています。それはインマヌエルの祝福に他なりません。主イエス様は、十字架につけられて死んで3日目に復活し、昇天される時、「わたしは、すべての日々に、あなたがたと共にいる」と言われました(マタイ28:20b)。復活・昇天されたイエス様は、インマヌエルの主として、聖霊によって私たちと共におられます。それこそ卓越した神の愛ではありませんか。それで私たちは神の愛の内にいるのです。そして「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています」(16節)と言うことができるのです。
この「知り、また信じています」というギリシア語動詞は、現在完了形が使われています。これは過去の行為が現在も結果を残している事実を示す点で、福音の真理を示すのにピッタリの語法です。イエス様を「知り、信じた」という過去の行為が、現在もその結果を残しているので「今も知り、また信じている」という意味になります。「私がかつて知ったイエス様を、今はもっとよく知っています。私がかつて信じたイエス様を、今はもっと深く信じています」と言えるのが、真のキリスト教の信仰なのです。
私たちが知った神の愛を、私たちは日ごと新たに、もっと豊かに知ることができます。神は愛だからです。人間の幸せは、愛の内にいることではないでしょうか。愛の内にいることは、私たちが愛されていることを知り、私たちも人を愛していることに他なりません。そしてそのことが、その人が「神のうちにおり、神もその人のうちにおられる」という現実に通じているのです。
イラストレーターの仕事を家庭でしている32歳の主婦の投書を見ました。「親の笑顔こそ子の安らぎ」というタイトルが付されていました。「かつて私は不登校児でした。自殺未遂も2回しました」という書き出しで、5年前に娘が元気をなくし、保育園を休みたいと言い出したというのです。「娘は保育園でいじめに遭い、家に帰るといらいらした自分に出会います。ああ、私は自分の親と同じことをしている!と気付き、まず自分が笑うことから始めました」。それだけでなく数カ月仕事をやめました。そして何をしたかというと、「娘と遊び暮らすことをしました。買い物をしたり、お金がない時はピクニックに行って、娘と2人で将来50年くらいまでの遊びの計画を立てたりしました」。
本当に賢いお母さんで、よくぞ気付いて行動されたと思います。「百の助言より、母親の心底からの笑顔の方がどれだけ役に立つかを、やっと思い出しました。娘はある日、『もう保育園に行く!』と言って行き始め、その後はいじめにも負けないで、毎日学校に行っています。子どもは家庭に安らぎを求めます。まず親が笑わなくては、親が幸せでなくては、子どもは幸せになりません」。本当に子どもが求めている幸せは愛しかありません。親の愛です。それは親の笑顔によって示されます。笑顔だけではないとしても、笑顔はその大きなものではありませんか。
私たちは神の愛を受けて、いつも喜びと笑顔を恵みとして与えられています。キリスト者はいつも喜んでいるのが自然の姿です。それで「いつも喜んでいなさい」と言われているので、これは無理なことを要求されているのではありません。かつての私の顔は怖い顔をしていたことが多かったようですが、それは神の愛を私が深く感じていなかったからです。今は聖霊に導かれ、主イエス様から注がれる神の愛を全身で感じることができ、「私は神の愛の内にいるのだ。神が私と共におられるのだ」ということが分かり、心の底から喜びが湧き、笑顔が生じてまいります。
(『西東京だより』第78号・2011年3月より転載)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)
(15)(16)(17)(18)
◇
村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。