前回学んだように、私たちの神は愛の根源であり、愛を本質とするお方です(7、8節)。この「愛」は行為を伴うもので、愛はいつも行為と共にあります。愛は行為そのものである、と言ってよいでしょう。神から出ている愛は、いつも具体的な行為として示されます。9節に記されているように、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました」という、まさにその行為において「神の愛が私たちに示されたのです」。
「神が愛であるなら、その証拠を見せてくれ」と言われますが、前述のように、神は御子イエス・キリストを遣わすことによって、ご自身が愛である証拠を私たちにはっきり示しておられます。私たちにいのちを得させるために、神の御子であるイエス・キリストが、十字架において「私たちの罪のために、なだめの供え物」となってくださいました。こうして私たちの罪の贖(あがな)いが成し遂げられたのですが、「ここに[神から出ている]愛があるのです」(10節)。
十字架におけるキリストの贖罪行為を、キリスト教の教理では《刑罰代償説》として説明しています。これは宗教改革者カルヴァンが明確に主張したもので、《私たちが受けるべき罪の刑罰をキリストが代わりに受けてくださった》というものです。以後、この刑罰代償説が十字架の贖いの教理を理解する際の基本とみなされるようになりました。しかし、この刑罰代償説の真理が本当に私たちの内に生かされるために大事なことは何か、という点に格段の注意を向けなければなりません。そうしないと、刑罰代償説が独り歩きをして、いろいろな問題をはらむことになるからです。
刑罰代償説に示された十字架の贖いの教理が、本当に私たちを活かす真理となるためには、十字架の贖いの行為によって神の愛が私たちに示されている現実を、最大限に強調しなければなりません。この強調が足りないと、刑罰代償説が律法主義的な働きをする危険があるのです。キリストは私たちの身代わりとして刑罰を受けてくださいました。そのことで示されている飛び切り大事な真理は、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」(11節)という神様の愛なのです。このことは、いくら強調しても、強調し過ぎることがありません。
20年近く前[1992年]のことですが、台湾の医師・阮徳茂氏が執筆された原稿を『治療救済論』と題して出版する手伝いをさせていただきました。その中で著者はこう言います。「十字架におけるキリストの贖いは、私たちを死の病から救い、私たちを完全に治療してくれるもので、そのことにおいて神の愛が現されている」と。刑罰代償説は否定しませんが、かなり批判的に見ています。「キリストは私たちの刑罰を身代わりに受けてくださったが、それは私たちを死の病から救い、私たちを完全に癒やしてくださるための神の愛の行為にほかならない」という主張は、傾聴に値するものであると思います。
パウロは、ローマ5:8に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」と記しています。パウロもヨハネと同じく、キリストの十字架によって[私たちに対する]神の愛が明らかにされている、ということを強調しているのです。神の愛が示されているという圧倒的な光の中で、キリストが私たちの罪のために死んでくださった、という教理が輝き出てくるのではありませんか。
聖書を丹念に読んでいくと、《十字架において神の愛が示されている。ここに愛がある》ということが、最重要の真理であることが分かります。このことを忘れると、刑罰代償説が律法主義的に独り歩きをして、「まだ自分の罪が赦(ゆる)されていないのではないか」「キリストが私の罪のために死んでくださったことを信じる信仰が足りないのではないか」と、いつも自分を責めるようになります。大事なのは、[自分を責めがちな]私たちを[なだめの供え物として御子を遣わしてまで]愛してくださっている神に目を向けることです。
11節には、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」という表現が見いだされます。「これほどまでに」とは、具体的に何を意味するのでしょうか。《神が私たちのために御子を遣わし、罪の贖いを成し遂げてくださったことである》というのも一つの答えです。しかし、もう一つの答えがあります。私たちのために贖いを成し遂げてくださった御子イエス様が、復活の主キリストとして私たちにご自身を現し、私たちと共にいてくださいます。復活の主イエス様が共におられることによって、私たちは十字架の贖いの教理をしっかり身につけることができ、自分の罪が赦された感謝と喜びを本当に実感することができるのです。
ヨハネの福音書とヨハネの手紙には、次のことが入念に教えられています。《神は私たちを愛し、その愛を私たちの内に注いでおられます。イエス・キリストにおいて神は私たちと共におられます。神が私たちの内におられるので、私たちは神の内を歩むことができるのです》。復活して高く天に上げられたキリストは、再び私たちのところに来られて、私たちと共におられるお方なのです。
ヨハネの福音書によると、イエス様は十字架につけられる前夜、弟子たちにこう言われました。「わたしは世を去るが、すぐにあなたがたのところに戻って来るのです。その時には、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたによくわかります」(ヨハネ14:16~20)と。このイエス様の約束は、「真理の霊」である聖霊によって実現しています。復活の主イエス様が私たちと共におられるのは、聖霊のお働きによることです。イエス様のものを受けて、それを私たちに知らせてくださる聖霊は(ヨハネ16:14)、イエス様が十字架で成し遂げた贖いの恵みを私たちに知らせ、そのことによって示された神の愛を私たちの心に注いでくださいます(ローマ5:5)。その確証として、復活の主イエス様が私たちと共におられることを確信させてくれるのも、聖霊ご自身のお働きなのです。
「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」ということを、聖霊の導きと助けによって知ることが、福音の理解にとって一番大切なことであると思います。十字架と復活の福音が本当に分かったということは、神様の愛に私たちが深く触れたということなのです。そのように私たちが神様の愛を感じれば感じるほど、私たちは互いに愛し合うようになります。ヨハネ第一書は、私たちに「互いに愛し合いましょう」と勧めるために書かれたようなものですが、私たちが互いに愛し合うことは、それをスローガンのように唱えていれば自然にできる、というように簡単なものではありません。十字架と復活の福音に深く触れて、私たちに示された神の愛が全身で感じられるとき、聖霊に導かれて互いに愛し合うようにされていくのです。
そのように私たちが互いに愛し合うようになると、「神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」(12節)。なんと素晴らしいことでしょう。その素晴らしい愛の中に私たちは置かれているのです。そのことを証しするのが、《赦す愛の共同体》の形成を目指す教会の使命であることを、あらためて心に深く留めたいと思います。
(『西東京だより』第77号・2011年2月より転載)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)
(15)(16)(17)(18)
◇
村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。