律法について何度にも分けて書いてきましたが、律法と福音を明確に理解するためには、聖書の各書に書かれている内容を正確にかつ有機的に整理していかなければなりません。
最近の本を書店などで眺めていますと、読みやすい本の中には、重要なポイントを各章の最後に「まとめ」として箇条書きにしている本を見かけます。実際に読んでみるとそれらが理解の助けになることが多いので、今回の連載でもその手法を使わせていただきました。
聖書理解というのは、何もない虚空に理解の支点となるポイントを据えていき、途中でずれてしまう前にポイント同士を線で結び、最終的には全部のポイントをお互いに有機的に結んでいき、自分の中に綺麗な「球体」を作り上げていく作業のようなものだとイメージしているのですが、そのためには噛み砕いた説明とポイントの整理、「はっとするような気付きの瞬間」というのを交互に何度も何度も繰り返していかなければなりません。つまり聞いたり読んだりした内容がしっかりと悟りや確信となるまで何度も繰り返して聞き、学び、追究しなければなりません(もちろんその前提として、祈りと聖書の通読が必要です)。皆様のその道程に微小でも役立つかもしれませんので、次のテーマに移る前に、今までのポイントを私なりにもう一度、整理し直しておきたいと思います。
【まとめ】
■ 福音と律法の関係
- 福音(ゴスペル)は世界中の人々に希望を与え続けている神のメッセージ。
- その福音の真意を深く受け入れるためには、律法を正確に知らなければならない(ガラテヤ3:24)。
■ 啓示
- 神はご自身を一般啓示と特別啓示によりあらわされる(ローマ1:20)。
- 一般啓示は大自然を通して与えられ、特別啓示は「言葉」として与えられた(ヨブ33:14)。
- 神は人類に特別啓示として「律法」と「福音」を与えられた。
- 「律法」はモーセを通して与えられた(ヨハネ1:17)。
■ 多義的な用語である「律法」
- 「律法」という用語は狭義で使われると「モーセ五書(旧約聖書の最初の五巻)」、広義で使われると「神の戒め」となる(本連載では「律法」=「戒め」の意とする)。
- 「十戒」は「神の戒め」としての律法に含まれ、かつ中核をなすものであるが、それだけが律法ではない(出エジプト20章)。
■ 戒めとしての律法
- 律法(戒め)とは本質的に「あなたがしたくないことを、しなさい」「あなたがしたいことを、してはなりません」というもの。(重要なポイント!!)
- 「戒め」を破る者には厳しい「罰」が伴う(ヘブル12:20)。
- 「罰」のない戒めは、空文化する。
■ キリストの律法
- キリストは「律法」を廃棄した方ではなく、一部の隙も無い厳格なものとされた方(マタイ5:17)。
- モーセの律法は「行為」を裁き、キリストの律法は「心」をも裁く(マタイ5:21~28)。
- 通常の法で有罪とされる人は少数であるが、キリストの律法によると、全人類が罪人とされる(ローマ3:10)。
■ 律法に対する誤解
- 律法(戒め)には、否定的なレッテルが貼られがちである(ローマ7:7)。
- しかし律法は聖なるものであり、正しく、良いものである(ローマ7:12)。
- 「律法」が悪いのではなく、正しい律法によって浮き彫りになる私たちの内にある「罪」こそが問題(ローマ7:13)。
■ 診療道具としての律法
- 自己の内面の「罪」を知ることは、体の病巣を発見するようなもの(ローマ7:20、23)。
- 律法とは病巣を発見するための診療道具のようなもの(ローマ5:13)。
- 律法を忌避(きひ)すると、自身の「罪」を自覚することができない(ローマ7:7)。
- モーセの律法では大きな罪(病巣)しか発見できないが、キリストの律法は、微小な芽をも見逃さない最新式の診療道具。
■ 究極の律法
- 「シェマー」と「黄金律」はもともとユダヤ教の根幹的な教えであり、その中核は「愛しなさい」(マタイ22:37、39)。
- 全ての律法は「愛しなさい」という一言に要約される(ローマ13:9)。
- 「愛しなさい」という教えは福音ではなく、律法(戒め)である(マタイ22:38)。(非常に重要なポイント!!)
- それは素晴らしい教えである故に福音的メッセージと混濁して語られやすい(ガラテヤ3:2)。
- しかしこれは、誰一人完全には守れない戒めである(ローマ3:20)。
- すなわち律法によっては誰一人として救いを得ることはできない(ローマ3:20)。
■ 峻厳(しゅんげん)な戒め
- 愛するときには「心を尽くして」愛さなければならない(マタイ22:37)。
- 愛するときには「自分自身」のように愛さなければならない(マタイ22:39)。
- 愛するときには「敵」をも愛さなければならない(マタイ5:44)。
- このような愛を実践することは誰にもできない(Ⅰヨハネ4:10)。
さて、今後も連載は続いていきますが、ただ読むだけでは理解は深まりませんから、今後は皆様と一緒に考えるための「設問」「疑問」を設けていこうかなと思います。ではさっそくこれまでの箇所から幾つか出しておきます。
【疑問点】
- 「愛しなさい」がユダヤ教とキリスト教の共通の教えであるなら、相違点は何か?
- 律法(戒め)が誰にも守れないものであるなら、なぜ与えられたのか?
- 「愛しなさい」が律法であるなら、「愛」というテーマは今日の教会内では、どのように語られるべきか?
- 「~しなさい・~してはならない」という戒めが、聞く人にとって戒めでなくなるのはどういう場合か?
- どうしてモーセは約束の地に入れなかったのか? 直接の原因はメリバテの水の事件(申命記32:51、52)で不信の罪を犯したゆえだと聖書に記録されていますが、この事は何を象徴しているか?
すぐには答えの出ないものもあるかもしれませんが、それらを心に留めておくというのが、理解を深める助けになります。それでは、来週以降は律法に近いテーマである「罪」について掘り下げていきたいと思いますので、続けてのお付き合いをお願いします。
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