律法は私たちの魂の問題を浮き彫りにする診断道具だと言いましたが、その診断道具である律法を鋭く正確無比なものとしたのがキリストです。彼は二つの事で、律法を完璧なものにしてしまいました。
一つは、心の中の事までを律法の守備範囲としたことです。旧約時代のモーセの律法においては(現代の法律も同様ですが)人々が実際に犯した行為の罪を裁きの対象とします。しかしキリストは、心の中で憎しみを持つことや姦淫の心を持つことまでをも律法の裁きの対象としました。
もう一つは、「愛せよ」という究極の言葉で律法の全体を要約することでした。律法学者たちが「この場合はどうしよう」「あの場合はどうしよう」などと戒めを細分化しながらトラック一台分の律法を作っている間に、キリストはただ一言「愛しなさい」と言われたのです。そしてこの「愛しなさい」という教えは、福音的メッセージでないということを前回確認しました。なぜなら、それは誰一人守ることのできない律法(戒め)であるからと。
しかし皆様の中には、「いやいや僕は愛を実践しているよ」という方もおられると思います。確かにそういう方々も大勢いらっしゃるでしょうし、感動的な愛の物語や逸話も世の中には沢山あります。ただこの「愛せよ」という言葉の峻厳(しゅんげん)さを私たちに教えるために、聖書には幾つかの言葉が補足されています。「律法」というテーマの最後としてそれらを確認していきましょう。前回も引用した箇所ですが、最初はこれです。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)
ただ愛するだけでなく、心を尽くして愛しなさいと補足されています。また目に見える人間だけでなく、目に見えない神様をも愛しなさいとなっています。なぜただ愛するだけでは不十分で、心を尽くして愛さなければならないのでしょうか。
それは、人間の心は非常に弱いので、心を尽くして愛さないと過ちを簡単に犯してしまうからです。例えば、ある人が結婚しているとして、自分の奥さんを愛しているとします。自分の子どもも愛しているし、家庭を大事にしています。しかしそんな人でも、ひょんなときに奥さん以外の人に惹かれてしまい、愛しているはずの奥さんを死ぬほど苦しめてしまうことがあります。もしもこの人が心を尽くして自分の奥さんを愛していたら、このようなことは避けられるでしょう。
次の言葉はこれでした。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マルコ12:31)
実は多くの人は憐れみの心というものを持っています。自分よりも非常に苦しい状況や極貧の中にいる人に愛情を分け与える心です。
これはとても尊い心であり、美しい心です。今もなお世界には、非常に多くの人が極貧の中にいます。今この瞬間にも5秒に1人、子どもたちが飢餓や病気で亡くなっているとも言われていますし、性の道具や戦争の道具として多くの幼い子どもたちが拉致されたり売買されたりしています。そのような中でゆとりのある人々が、弱者に対して憐れみの心を開き、実際に手を差し伸ばすことは非常に大切なことであり、「対岸の火事」としないで、もっともっと積極的に取り組んでいくべきでしょう。しかし残念なことにこの「憐れむ心」というものには、限界があります。その心が芽生えるのは、自分に余裕があり、相手が自分よりも非常に苦しいときに限られるからです。
多くの人にとって、自分のゆとりの中から愛の実践をするというのは、比較的易しくできるものです。時間にゆとりのある人は、自分の時間を社会奉仕などに充てるかもしれません。お金にゆとりのある人は、自分の収入の一部を貧しい国に寄付できるかもしれません(もちろんこれらの行為は非常に美しく、称賛され、奨励されるべきことです)。しかし自分が食うや食わざるやというような状況になったときに、自分のわずかなお金や食べ物を自分のために半分、隣人のために半分分けてあげられるという人は皆無でしょう。むしろ血を分けたおいっ子やめいっ子であっても、彼らを煙たがるということが起こるかもしれません。「ホタルの墓」というジブリ映画では、そのような悲しい状況が描かれていましたね。人によって程度の差はあるでしょうが、自分を愛するのと同様に隣人を愛することは不可能なのです。
「そんなに悲観的な面ばかりを見ないで、もっと人間の良い面を見たほうが良いよ。世の中には自分以上にわが子を愛して、命をかけて守るという例も沢山ある」と言われるかもしれません。
その通りですね。そのような話を聞くたびに多くの人が感動し、涙を流すものです。しかし残念ながらそれでも、人間の愛というのは不完全なものだと帰結しなければなりません。最後にこの言葉を正面から見据えてみましょう。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)
確かに自分の子どもを自分と同じように、もしくは自分以上に愛する親はいます。とても素晴らしいことであり、その心情は親になってみなければ分からないものなのでしょう。また命がけで見ず知らずの人を助けるという美談もまれにニュースになります。これは本当にすごい事です。しかし、「自分の敵を愛せよ」という言葉の前には、皆が降参するしかないのではないでしょうか。この言葉を心から受け入れられる人はいるでしょうか。
今までの三つをまとめるとこういうことです。心を尽くして愛しなさい。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。また自分に危害を加えてくる敵をも同様に愛しなさい。
「愛し合いましょう」という言葉はともすると、誰もが納得し皆が実践できる理想的な言葉のように聞こえがちですが、自らの命の犠牲や敵愾(てきがい)心の克服すらも伴う峻厳な律法(戒め)なのです。
では、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」というキリストの言葉は、荒唐無稽な放言なのでしょうか。いやむしろ、現在の国際社会のように復讐(ふくしゅう)心や憎しみが武力という形で発露している状況においては、最も必要とされる珠玉の言葉なのではないでしょうか。また皆様の中にもでき得るならばこのような「愛」を持つ人間になりたいと願われる方々もいることでしょう。
ただ悲しいのは、人間は誰一人この最高の戒めを全うすることができないということです。
【まとめ】
- キリストは心の中をも律法の守備範囲とすることと、「愛しなさい」という一言で律法を要約されることによって、律法を完璧なものとされた。
- 愛するときには「心を尽くして」愛さなければならない。
- 愛するときには「自分自身」のように愛さなければならない。
- 愛するときには「敵」をも愛さなければならない。
- このような愛を実践することは誰にもできない。すなわち誰も律法を全うすることができない。
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