聖書のある箇所で、律法の専門家がイエスに「一番大切な戒めはどれですか」と尋ねる場面があります。そこでイエスはこう答えています。
「そこで、イエスは彼に言われた。『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです」(マタイ22:37~39)
この箇所に関しては、小さな誤解と大きな誤解の二つが起こりやすいように思われます。小さな誤解とは、この箇所がキリストのオリジナルの言葉(教え)であると思ってしまうことです。しかし、律法の専門家は、イエスの時代にすでにあったヘブライ聖書(旧約聖書)の中で、一番大切な教えはどれかと聞いたのですから、当然この箇所はキリストが生まれる前からあったものとなります。
特に第一の戒めに関しては、「シェマー」と言われ、当時から朝に夕に唱えられていたものであり、ユダヤ教のエッセンスを凝縮したものなので、何もキリストに問わなくても誰もが大切なものとして知っていた内容です。この箇所はシェマー・イスラエル(Shema Yisrael)「聞けイスラエルよ」という宣言から始まるのですが、その後に重要な内容が語られるので、注意深く聞きなさいという意味です。本文は申命記6章4節からですが、引用しておきます。
「聞きなさい(シェマー)。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4、5)
第二の戒めは黄金律(ゴールデンルール)などと呼ばれますが、これに関しても、全く同じ内容がレビ記19章18節に記録されています。
つまり、この神と隣人を「愛しなさい」というのが、ユダヤ教の根幹の教えであり、キリストもまたそれらを一番大切な教えとして再確認されたということになります。この一点に関しては、キリスト教もユダヤ教も全く同じということになるのです。
おそらくこれを読まれている皆様も、これらが大切であるということには同意されると思います。ゆえにこれらは、教会の中でも度々語られる「教え」になっています。
「愛」が大切であることは、さまざまな人たちによって語られ続けてきましたが、新約聖書の中にも「愛の章」といわれる箇所があります。その章ははじめから終わりまで「愛」について語っています。たまたま私は大学のオーディオルームでこの「愛の章」を外国のオペラ歌手が力強く歌い上げているのを聞き、全身が雷で打たれるような経験をしました。力強い音楽と真っ直すぐな言霊が一つになるというのは、ものすごいことです。ここでは音楽はありませんが、その章の一部を紹介したいと思います。それでも感銘を受ける人は受けられると思います。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。・・・こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリント13:4~13)
いかがでしょうか。とても力強い言霊ではありませんか。愛こそが至高だというわけです。しかし私は「愛しなさい」という言葉を、そのまま何の説明もなく「最高の教えだから実践してください」と言って皆様に勧めることができません。「愛しなさい」という言葉の衝撃的な性格を知っているからです。
実は「愛しなさい」という言葉は究極の教えであり、万人が心から同意し、それを実行したいと思う教えなのですが、同時に絶対に何人(なんぴと)も守ることのできない戒めなのです。
先ほど言った、大きな誤解とはここにあるのです。実はこの教えは、「キリスト教の中心的な教え」、言い換えると「福音的メッセージ」であるかのように誤解している人が、クリスチャンの中にも非常に多いのですが、これは「律法」なのです。「愛しなさい」というメッセージは「戒め」なのであって、福音ではないのです。
聖書を確認しておきましょう。
「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」(マタイ22:40)
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法・・・です」(マタイ7:12)
キリストは律法の専門家の問いに答えられたあと、この二つの教えが律法全体の要約であり、要(かなめ)の戒めであることを明言されています。
しかもこれらは「盗んではならない」や「殺してはならない」などの教え以上に守るのが難しく、かつそれら全ての教えを網羅している戒めなのです。例えば、皆様が神様を愛しているとしたら、「神様の名を冒涜するな」という戒めが別途なくても冒涜することはあり得ないでしょうし、皆様が隣人を愛しているのならば「殺すな」「盗むな」「偽るな」「欺くな」「隣人の妻と姦淫するな」という戒めがなくても、隣人にそのような行為を通して危害を加えたり傷つけたりすることはあり得ないでしょう。また、本当に他者を愛することのできる人は、言葉において他者の悪口を言ったり、心において他者を憎んだりすることすらできないはずですので、前々回のテーマであった「キリストの律法」をも自然とクリアしてしまいます。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず・・・」と確認したとおりです。
つまり、私たちが「愛せよ」という律法を守れるのならば、はじめから他の律法(戒め)は不要なのです。逆にいうと誰一人、「愛せよ」という律法を守ることのできる人がいないので、仕方なしに多くの戒め(律法)が人間に与えられたのです。
ではこの「愛しなさい」という教えは、律法であり福音でないのだから、軽んじてよいかといえば、絶対にそんなことはありません。律法は神の特別啓示によるものであり、聖であり、正しく、良いものなのですから。ただし、律法は律法であるということをしっかりと認識していなければなりません。「愛しなさい」という絶対に守ることのできない律法(戒め)を、福音的なメッセージと混濁して、あるいは代替して語ってしまうことに注意を払わなければならないということです。もしそう語ってしまうと、聞く人は正しい教え(戒め)である故に納得するでしょうが、その人の魂を救うことはできません。律法によって人は救われないからです。
「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです」(ローマ3:20)
【まとめ】
- 「シェマー」と「黄金律」は、元々ユダヤ教の根幹的な教えである。
- 「愛しなさい」という教えは福音ではなく、律法(戒め)である。
- それは素晴らしい教えである故に福音的メッセージと混濁して語られやすい。
- しかしこの律法(戒め)を守ることのできる人はいない。
- すなわち、律法によっては誰も救いを得ることはできない。
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