これまで「律法」について、さまざまなポイントに分けて書いてきましたが、究極的には「愛せよ」(心を尽くして、自分と同じように、汝(なんじ)の敵までも)という実行不可能な戒めが神様の律法の要約であり基準であると、聖書を一緒に確認してきました。それでは、神様はむちゃくちゃな戒めを私たちに与えているのでしょうか。
いいえ、そうではないことは、私たちの良心が知っています。そして、誰もこれらの聖書の言葉に矛盾や欠陥を見出せないはずです。私たちはそれを守ることができないとしても、万一そのような「愛」を実践している人を目の当たりにしたら、魂がゆさぶられるほど感動するでしょう。つまり私たちは律法が真っ直ぐなものであり、理想的なものであることに心の奥底では納得しているのです。
ではなぜそのような正しく良いものを私たちが受け入れることができないのでしょうか。私たち人類は心のねじ曲がった、不良品だというのでしょうか。
いいえ、神様は人間をご自身に似せた理想的な存在として造られ、造られたあとに“非常に良い”と言われたと聖書にあります(創世記1:31)。つまり私たちは神の言葉をそのまま喜んで受け入れられる非常に高貴な存在として造られたのです。ではなぜそんな私たちが、正しく良い律法を受け入れることができなくなってしまったのでしょうか。
それは私たちの中に、正しく良いものを受け入れられない「病」が発生してしまったからなのです。聖書はそのことを「罪(つみ)」と呼んでいます。そしてその罪という病を浮き彫りにするのが、律法の役割でした。
行為の罪
一番分かりやすい罪とは、行為の罪です。実際に人を殺したり盗んだりすることです。身近なところでは、万引きなども思い浮かびます。
私が高校生の時、学校の前にあったコンビニの店長から「毎月40万円近い万引きの被害を受けている」との苦情が来たことがあります。しかもこの40万円というのは、そのオーナーの給与の額に相当し、オーナーは生活していくことができないというのでした。私は40万相当もの商品を万引きする生徒たちが同じ学友たちの中にいるということに驚いたのを覚えています。
一体どこからそのような悪い行いが生じるのでしょうか。また私たちの良心はなぜそれをやめることができないのでしょうか。
言葉の罪
行為の罪と同様に、時にそれ以上に深刻な影響を与えるのは、言葉の罪です。言葉というのは私があらためて言うまでもなく、非常に大きな影響を人に与えます。良い言葉や優しい言葉をかけると、悲しみや苦しみに打ちひしがれている人に希望や生きる勇気を与えたりしますし、反対に人の心をえぐるような言葉もあり、それによって実際に命を落とす人も少なくありません。
そのような事件を聞くと「なぜそんな言葉を人に浴びせかけたのだ」という怒りや非難の気持ちがわいてきますが、同時に忘れてはならないのは、私たちの些細な言葉によって、人を傷つけるということも容易に起こり得るということです。“言葉の罪”の深刻さを端的に書いている聖書箇所がありますので、引用してみましょう。
「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き・・・舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。・・・賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません」(ヤコブ3:6~10)
あってはなりませんと言われてやめられるのなら、誰も悩まないでしょう。ではなぜ私たちは、自分では良くないと分かっていても、自分の口から悪い言葉や人を傷つける言葉が出るのをやめることができないのでしょうか。それは一段と深いところにその原因があるからです。
心の罪
一段と深いところというのは、心のことです。私たちのうちから出てくる言葉や行為は良いものであれ悪いものであれ、全て私たちの心の中で始まっています。
憎しみが心にいっぱいになると口から悪口が出てきて、ついには殺人に至るのであり、欲しがっても自分のものにならないと盗んでしまいます。不倫などの性的な過ちを犯すのも、心の中にある思いから始まっていることは自明のことでしょう。キリストも全てが心から出ているということを、このように表現しています。
「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」(ルカ6:45)
英語の表現に「GIGO」と言うものがありますが、これはGarbage in, Garbage outという英語の頭文字をとったものです。garbageとはゴミのことですので、ゴミをインプットしたらゴミのようなものしか出てこないという意味です。
これらのことに気付いている人は、意図的に自分の心を良い感情や徳で満たそうと努めます。宗教家の話を聞く、自己啓発本を読む、上質な音楽を聴くことなどで気持ちを穏やかにしたり、イライラやストレスの多い状態が続く場合は“お笑い番組”を見ることによってそれらを解消したり、何事にも感謝する気持ちや「ありがとう・すみません」と言うことを忘れないことによって心を良い状態に保とうとしたりします。これらは多かれ少なかれ効果のあることで、何もしないよりは、意識的に自分の心を善なる状態にすることは望ましいことです。
しかし、しかしです。これらのことを山ほどした挙句に気付いてしまうことがあります。それは「ああなんて自分は人間ができていないのだろう、何て心が狭く汚いのだろう」ということです。多少は人間的な方法により“まし”になることはあるでしょうが、私たちの心が完全にきよくなることはないのです。キリストの教えを全世界に伝えた偉大な人物である使徒パウロは、この罪の問題に関してこのように嘆きながら告白しています。
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。・・・私は、ほんとうにみじめな人間です」(ローマ7:19~24)
ではなぜ私たちの心の中に、悪意や罪が存在しているのでしょうか。私たちはそんなものを願わないのに、なぜ私たちの心の中にゴミのような考えや感情が居座っているのでしょうか。
それは、さらに一段と深いところにその原因があるからです。
【まとめ】
- 人類は「愛しなさい」という正しく良い戒めを喜んで受け入れられる高貴な存在として造られた。
- この正しい戒めを実践できないのは、人類に「罪」が入り込んだからである。
- “言葉の罪”は、行為と同等あるいはそれ以上に人を傷つける。
- 言葉や行為で罪を犯す原因は「心」にある。
- 心を良い状態に保つ努力をすることは有益だが、誰も心の罪を完全に消すことはできない。
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