「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)
明日のことを思い煩ってはいけないというのは、決して楽観論の勧めではありません。「人生は何とかなるさ」というような気休めを言っているのではないと思います。「明日」は神の手に握られており、誰も推し量ることはできません。たった一日で大企業が倒産したり、国家の命運が変わったり、自然災害や事故に遭い、命を失うかもしれません。
明日という領域は、神の領域であり、私たちには立ち入ることが許されない領域です。私たちに許されているのは、「今日」というこの瞬間だけです。この瞬間に精一杯生きて悔いのない生き方をしていくのが、私たちの人生です。
今から150年前、薩摩藩の若い留学生15名が英国を目指しました。鹿児島県のいちき串木野市を出港し、沖合に停泊していたトーマス・グラバーの所有する船に乗り込み、英国を目指します。万一幕府に発覚しても家族に迷惑がかからないように、全員偽名を名乗っていました。
その中の一人が森有礼(偽名・沢井鉄馬)です。彼らは英国滞在中、クリスチャンの家庭にホームステイし、日曜日には礼拝に連れていってもらったといわれます。洗礼を受けたという記録は確認できませんが、かなりの信仰心を持っていたといわれます。米国を経由して日本に帰りますが、明治初期の日本はとてもキリスト教の信仰を表明できるような状況ではありませんでした。
森有礼は初代文部大臣になりますが、文部省唱歌の中に賛美歌のメロディーを組み込むように指示したといわれます。また、出所が賛美歌と分からないように、文部省唱歌はすべて作者不詳にしたともいわれます。森有礼が言っていたのは「今の時代には分からなくても100年後の人々は受け入れるかもしれないから、その環境を整えておこう」だったそうです。明治の先人たちの偉大さはいつも100年後、150年後を見据えていたということではないかと思います。
「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(使徒2:17)
「青年はビジョンを見る」と聖書に示されています。明日のことを思い煩う必要はありませんが、「明日のビジョン」を持つことはとても大切です。自分が達成できなくても子や孫の代にできればいいとか、後の世代に委ねて、自分ができることを精一杯やっていこうと思うと気持ちが楽になりますし、希望を持つことができます。
「思い煩う」とは、心配しすぎて「頭に火がつく」状態です。会社経営のこと、伝道の不振、生活の心配など考えてもため息の出ることばかりかもしれません。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)。自分のやったことは無駄ではない、自分の目で確かめることはできなくても将来活かされる、だから精一杯やれるところまで頑張ろうという姿勢が、悔いのない人生になると思います。
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穂森幸一(ほもり・こういち)
1973年、大阪聖書学院卒業。75年から96年まで鹿児島キリストの教会牧師。88年から鹿児島県内のホテル、結婚式場でチャペル結婚式の司式に従事する。2007年、株式会社カナルファを設立。09年には鹿児島県知事より、「花と音楽に包まれて故人を送り出すキリスト教葬儀の企画、施工」というテーマにより経営革新計画の承認を受ける。著書に『備えてくださる神さま』(1975年、いのちのことば社)、『よりよい夫婦関係を築くために―聖書に学ぶ結婚カウンセリング』(2002年、イーグレープ)。