自分に正直にあれ
お祈りを一人でしているときに、自分の心を偽っている訳ではないけれども、正直に洗いざらい神の前にさらけ出していないことがある。よくよく考えていないときは論外であるが、本当のことを認めたくないとき、本当のことを認めるのが怖いとき、私は神様の前に100%さらけ出すことなく祈っていたことがあった。一方通行の祈りであった。言い訳のついた祈りであった。こういう祈りは、祈りではなく、ただ自分の欲求を祈りという形式に乗せて願っていたにすぎない。もちろん、こういうときの祈りは、祈りになっていなくとも、本人にとっては深刻な問題であることが多い。冷静さを失っているのであろう。
ちょっと冷静になればすぐに分かることである。つまり、祈りに乗せて言う、言わないにかかわらず、聖霊はすべてご存じなのである。私たちが隠していること、隠そうとする心を持っていることは、とうの昔にご存じなのである。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」(Ⅰコリント2:9)
隠し事をするような人に対して、私たちは心を開いて相談に乗るだろうか。本気になって相談になど乗らないのが普通であろう。聖霊にとっても同じではなかろうか。私たちが心をさらけ出してこそ、初めて真剣に相談に乗ってくれるのであろう。
そして、そんなことよりも何よりも、自分の本心を隠して(実際は隠したつもりでいるだけである)、神に相談したり祈ったりすることは、神に対して罪を犯すことなのである。
私たちが本心を隠すのは、神に頼らず自己に頼り、自分の力で何とか問題を解決しようとしているからに他ならない。神から見れば、最も嫌われるプライドの高い人間になっているのである。これは、逆に言えば、神への不信、神の力の過小評価ということに連なっている。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」(エペソ4:30)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。