神の前に素直になる
私にとって、本当に静かに自分自身を振り返り、神の前に素直な気持ちになれるのは、早朝、特に誰もまだ起きていない6時頃である。布団の上に静かに座り、暗い中で目を閉じていると、シィーンという音だけが耳に入ってくる。自分の今考えていることを包み隠さずにスラスラと神様の前に言い表すことができる。考え考え言うのではなく、本当にスムーズに流れるように今自分が抱えている問題を言い表すことができる。一晩寝て頭の疲れがとれるのだろうか。誰にも気兼ねせずに自分の心を言い表せる静寂さによるのだろうか。
いずれも正しいと思うが、必要十分な条件とはならないように思う。私の経験からだが、いくら誰にも気兼ねせずに表現できる環境にあっても、素直に自分自身を言い表すことができない時があった。例え祈りの中であっても言い表せない時があった。今考えてみると、それは一種の恐れであり、自分自身への拘泥(こうでい)がいまだ色濃く残っていたので、自分の負の面を正直に認めることへの拘泥、恐れとも言えると思う。
自己のあるがままを、損得、羞恥、プライド、恐怖等々があろうとも、神の前に素直に言い表さないでは、信仰は自分の努力で行う信仰になってしまう。信仰は、自分の努力で行うと変な方向に行ってしまう。喜びもなく、神とも一線を画した交わりとなる。何よりも悲しいのは、神が手を差し伸べているのに神の手を払いのけているのと同じで、神の働く余地がなくなってしまうことである。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:7)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。