聖書の中に、納税義務に関わることが書かれている。それはイエスご自身が語った「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)という言葉である。でも今日のほとんどの教会は、カイザルに納税しなくてもよい。それは「宗教法人」という免税システムの中に存在するからだ。
でも宗教法人であることは、神の国の法則より宗教法人法が優先するという矛盾を抱えることになる。宗教法人法は、「民主主義」すなわち「多数決」が原則となっており、そのために総会が義務付けられ、一番大切なことは全て総会の過半数で決定されることになる。でも聖書は、過半数の意見がいつも正しいとは言っていない。否むしろその逆が真理であると書かれている。マタイの福音書7:13は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多い」と言っている。イエスの十字架刑は群衆の圧力で決まったようなもので、多数決がいかに大きな危険性を含むかを示している。ある教会に偽教団の信者が集結し始め、やがて総会でその教会を乗っ取ってしまった例がある。実は、総会も役員会も多数決も、聖書の中に見出すことができない。
民主主義という言葉にはよい響きがあるが、原罪を有する人間社会では、「民主主義=善」とはならない。民主主義に代わる体制は実は2つある。一つは「独裁国家」、そしてもう一つは「黄金律(キリストの2戒)」である。聖書が教えるのは民主主義でもなく独裁国家でもない。最初から一環して「黄金律」が説かれている。
宗教法人の唯一の目的が免税であるなら、教会は、免税と神の国の法則とどちらが優先されるべきものであるかを考える必要がある。免税資格を失わないために、教会は聖書の教えと伝道には全く関係のない多くの業務を強いられ、忙しくなる。
よく考えると、税金は飛行機の空港使用料に似ている。飛行機は、中継地となる空港にお金を支払わなければならないので、中継地点が多ければ多いほど支払いの回数も多くなる。税金の場合、お金を受け取る法人、あるいは個人が飛行機の中継地のようなもので、経由した数だけ納税義務が発生する。そのような納税義務から解放されるための手段が宗教法人法で、教会にお金が集まった場合、例外的に免税になる。
神の国の法則を第一にするために、私は次のような発想を持っている。それは宗教法人という形で免税を確保するのではなく、教会をお金の中継地点にしないことによる免税手段である。すなわち、各信者が献金を必要とする個人や団体や活動に直接支払うことにより、教会の納税義務をなくす発想である。教会は、本当は目に見えない有機体であるので、そこにお金が集まらなければならない理由はない。お金は教会に献金されることにより清められるものではないので、私はついそんな免税方法を考えてしまう。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。