クリスチャンの世界では、職業と収入源に関して聖と俗を区別する傾向がある。聖職者(実際は聖書には無い概念)あるいは献身者の仕事は聖に属し、またその収入源である献金やサポートも聖に属す。一方献身を前提としない一般的な仕事は、俗的であると考えられる。特に売上利益に直結するセールスのような仕事の場合、熱心になり過ぎると「貪欲者」とか「お金に目がくらんだ人」というレッテルさえ貼られる危険性がある。でも職業と収入源に聖と俗の区別が本当にあるのだろうか。「献身=清いお金で暮らす」ことなのだろうか。
私は聖書を読んでいて長い間気になっていたことがある。それは漁師ペテロに関する記述である。ペテロが兄弟アンデレと一緒に湖で網を打っていたとき、「私について来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう」とイエスに言われ、ただちについて行った(マタイ4:18~20)。これはいわゆる「献身」なので、俗から聖への職業転換とも言える。でも献身したはずのペテロが、後に漁に戻ってしまったのだ(ヨハネ21:2~13)。イエスが捕らえられ十字架刑に処せられたときならまだ理解できる。なにせイエスを3度も裏切ったのだから。師を失ってしまったペテロは、元の職業に戻るしかなかっただろう。でもペテロが漁に戻ったのは、失意のどん底にあったときではなく、イエスの復活の奇跡を目撃した後、すなわち希望を取り戻した後の話だ。しかもその時、もともと漁師ではなかった弟子たちまでもが一緒に漁に出掛けた。この事件は、献身したとき網を捨てたはずの弟子たちが、堕落して俗的仕事へ戻ったということなのだろうか。これは私にとって大きな疑問として残った。
献身者が普通の職業に戻ったとき、「脱落者・堕落者」と非難されることが多い。私はそういうケースを何度か見ている。ペテロが漁に戻ったのは、一瞬ではあっても心に迷いが生じたからであるというメッセージを何度か聞いたこともある。でも聖書の記述を良く読むと、再び漁に出掛けたことが、聖から俗への逆戻りとは描写されていない。復活後のイエスは、漁をしていた弟子たちを見て、「信仰の薄い者よ。私のパンの奇跡を覚えていないのか?」とは言われなかった。それどころか「食べる物があるのか?」と質問し、それに対して弟子たちは「ありません」と答えた。一晩中漁をしても魚が取れなかったからだ。この会話のやり取りから察するに、イエスは彼らを責めたのではなく、「魚は取れたのか?」と彼らの仕事の成果を質問したことになる。弟子たちは一瞬の心の迷いがあったのではなく、食料確保のために、普段通りに漁をしたのだ。イエスのアドバイスに従って網を打ちなおしたとき、大きな魚が153匹も取れた。イエスと弟子たちは、岸辺で数匹だけを焼いてパンと一緒に食べた。ここからは私の推測だが、残った魚は捨てられたのではなく、売って現金収入にしたか、あるいはそこに居合わせなかった仲間に分けたのではないかと思う。(続く)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。