ビジネスにおいても宣教活動においても、あるいは英語の習得においても、成果が上がるかどうかにおいて、共通要素がある。それは「熱心さ」と「賢さ」の違いに気付くかどうかである。われわれは「熱心さ」を高く評価する。「熱心なクリスチャン」と呼ばれる人は、良い評価を得ていることになる。真面目にまた熱心に働いたり勉強したりする人たちも、立派な人物ということになる。でも真面目で熱心であれば、事は足りるのだろうか。
「熱心さ」の前に「賢さ」がないと、その熱心さは無味乾燥なものになってしまう。「賢さ」とは「正しいことを正しく行う」ことを意味する。カルトに走る人たちは非常に熱心で真面目でもある。でも「賢さ」の欠如により、その熱心さは社会に弊害をもたらす。多くの熱心なクリスチャンは熱心に信仰生活を送っているが、日本のクリスチャン人口は0・5パーセントにとどまっている。ではその熱心さは何に対する熱心さなのだろうか。ただ単に熱心であることに、どれだけの価値があるのだろうか。もし「熱心さ」の目的が自己満足であるなら、その熱心さはむなしく、何の良いことも起こらないだろう。
私はつい最近 YouCanSepak という英語スピーキングに特化したeラーニングシステムを開発し特許申請をしたが、その動機は「熱心さ」と「賢さ」の違いを明確化させるところにあった。多くの日本人は、熱心に英会話を学んでいる。「5年もやれば何とかなるだろう」とか「10年続ければ絶対に話せるようになる」と信じ、長年真面目に熱心に学んでいる人が大勢いる。でも成果が上がらず、自分には語学の能力が無いと結論付ける人も少なくない。でも全てには理由がある。英語がなかなか話せるようにならない人は、例外なく話せるようにならない方法で学んでいる。逆に英語を上手に話せるようになる人は、上手に話せる方法で学んでいる。もし「熱心さ」と「真面目さ」だけで英語が上達するなら、日本は英語がペラペラな人で満ち溢れているはずである。英語を話すとは、頭に思い描くことを瞬間的に英語で言うことなので、「思い→瞬時の音声化」の練習をしない限り、英語は話せるようにならない。このことが分かれば、「熱心さ」の前に「賢さ」を得たことになる。もしあなたが今行っている英語のレッスンが「思い→瞬時の音声化」の練習でなければ、成果を期待することはできない。英語習得は、「熱心さ」だけではどうにもならないからだ。
われわれは「主よ、主よ」と叫び、熱心になることができる。でもその熱心さの目的が自己充足で、「誰のため」あるいは「何のため」かが欠如していれば、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」(マタイの福音書7:23)と言われてしまうだろう。われわれは霊的に危機的状態にある日本を変えるために、「熱心さ」の前に「賢さ」を身に付ける必要がある。「正しいことを正しく行う」ことに心を留めれば、何をすべきかが明確になり、効果的な主の働きができる。ビジネスにも同じことが言える。
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。