インドに古くから伝わる民話があります。いろんな時にこの話を思い出します。今日はこの話を記録しておきたいと思います。
ある所に一人の農夫がいました。彼は遠くの泉から新鮮でおいしい水を汲んでご主人の家に毎日運んでおりました。何キロもある田んぼのあぜ道を歩いて毎日水運びをしておりました。彼は二つの瓶(かめ)を天秤棒で両肩に担いで運んでおりました。一つの瓶はまだ新しいものでどこにも水漏れをするようなひびのようなものはありませんでしたが、もう一つの瓶は大分古くてあちこちにひび割れがしていて、そこから水が漏れるのです。それで泉からご主人の家まで運んでいるうちに水が半分くらいにまで減ってしまいます。農夫はこの二つの瓶を使って二年間ほど水運びの仕事を毎日せっせとしておりました。
ある時、農夫が泉でこの二つの瓶に水を汲んで入れていると、ひびの入っている方の瓶が農夫に言うのです。「僕は悲しいよ。せっかく水を一杯入れてくれても、ご主人の家に着くころまでには半分くらいに減っているのだから。本当に情けなくてつらくなるよ」と悲しい声で言うのです。農夫はそれを聞いてひびの入っている瓶に言いました。「そんなことを言わないでおくれ。おまえは随分と働いてきたし、おまえはおまえでいいんだよ。今日、帰り道におまえに見せたいものあるから、よく見ておくれ」と農夫は言って、いつもの道を瓶を担いで帰っていきました。
帰り道に小高い丘の上に来たとき、ひびの入っている瓶に農夫が言いました。「今来た道を振り返ってみてごらん」と。すると、その道にはすてきな花が道にそってきれいに咲き乱れているではありませんか。その美しさにひび割れの瓶は少し慰められましたが、それでもやっぱり自分が十分な働きができないことで気持ちがまたすぐに暗くなるのでした。
そのような瓶を見て、農夫が言いました。「おまえはあのきれいな花が道の片側にだけ咲いているのに気が付いたかい。私はお前から水が漏れるのを知っていたから、私は道に沿って花の種を植えておいたのだよ。それで毎日水を汲んで帰るときに、その種におまえの瓶から漏れる水をやっていたんだよ。それであんなにきれいな花道ができたんだ。私が時々そこから花を摘んでご主人の食卓に飾ることができているのも、おまえのおかげなのさ」と言ったのだそうです。
パウロは言いました。「私が弱い時にこそ、私は強いのです」と。
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福江等(ふくえ・ひとし)
1947年、香川県生まれ。1966年、上智大学文学部英文科に入学。1984年、ボストン大学大学院卒、神学博士号修得。1973年、高知加賀野井キリスト教会創立。2001年(フィリピン)アジア・パシフィック・ナザレン神学大学院教授、学長。現在、高知加賀野井キリスト教会牧師、高知刑務所教誨師、高知県立大学非常勤講師。著書に『主が聖であられるように』(訳書)、『聖化の説教[旧約篇Ⅱ]―牧師17人が語るホーリネスの恵み』(共著)など。