何年か前、韓国のある大学で開催されました国際神学会議に出席いたしました。以前から存じ上げている一人のヨーロッパの旧約聖書の学者が主講師になっておられました。今となってはどのような内容のお話をされたか、ほとんど覚えていませんが、一つだけ印象に残ったことがありました。それは、その学者が聖書に文字として書かれていることが重要なことであって、その書かれていることに関心を寄せるべきである、というようなお話をされたことです。それを聞いていてふと思いました。私もそれに賛同する者だけれど、聖書に書かれていることを手ががりとして、そこに書かれていないことを探究することも重要ではないかと思ったのです。
と言いますのも、特に旧約聖書を読んでいますと、読者が知りたいと思っていることが書かれていないことが多々あります。例えば、アブラハムが神様から独り子のイサクをモリヤの山でささげなさいと命じられた時、アブラハムがどう感じたかということについて、聖書は何も書いていません。アブラハムは当然親として苦悩の坩堝(るつぼ)に落とされたような気持ちであったと思います。しかし、彼の気持ちについては何も触れられていないのです。それで、聖書は読者がそこに書かれていないことを自分なりに考え、想像し、自分の状況に照らし合わせることができるようにと、あえて記述していないのではないかと感じてきました。
そのことを東洋の絵画の特徴を引き合いにして質問したのです。東洋の絵画は往々にして余白の多いものがあります。画面には簡素な草木が書かれていて、後はほとんど何も書かれていない余白の多い絵がありますが、それは、そこに鳥や昆虫が自由に飛び回ることができるようにと、あえて余白を十分に残しているように思います。聖書は私たちが自由に想像できるようにと余白を十分与えてくれている書物ではないでしょうか、という質問をしたのでした。
そのことが西洋人には新鮮に感じたらしく、後から何人かの方々からコメントをいただきました。何も書かれていない余白の部分や行間の意味を大事にする傾向のある東洋人の目を通して聖書を読むとき、聖書に込められている意味がさらに膨らみを持ってくるのではないでしょうか。
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福江等(ふくえ・ひとし)
1947年、香川県生まれ。1966年、上智大学文学部英文科に入学。1984年、ボストン大学大学院卒、神学博士号修得。1973年、高知加賀野井キリスト教会創立。2001年(フィリピン)アジア・パシフィック・ナザレン神学大学院教授、学長。現在、高知加賀野井キリスト教会牧師、高知刑務所教誨師、高知県立大学非常勤講師。著書に『主が聖であられるように』(訳書)、『聖化の説教[旧約篇Ⅱ]―牧師17人が語るホーリネスの恵み』(共著)など。