本書の執筆目的が随所に見られる中、ここの13節にも「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と記されています。イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを持っている! この真実を読者によく知ってほしいとの一念で、本書は執筆されているのです。
2:1には「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」とありますが、それも本書の執筆目的の一つでした。御子を信じる者が「罪を犯さないようになる」とは、「愛を行う」ことです。イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うようになることを願って本書は執筆されています。
ところで、永遠のいのちの根源であるイエス・キリストは、尽きることのない愛を満ちあふれるほど持っておられます。無尽蔵の愛に満ちあふれたいのちですから、「永遠のいのち」と呼ばれるのです。この永遠のいのちを持っているキリスト者は、キリストにあって、無尽蔵の愛に満ちあふれたいのちを受けています。そのことを頭で理解するだけでなく、また心で感応するだけでもなく、全身全霊で体得するようになることを願って、本書は執筆されているのです。
私たちに与えられている「永遠のいのち」は、復活の主イエス・キリストのいのちに他なりません。十字架において私たちの罪のために「なだめの供え物」となり、死に勝利してくださった復活の主イエス様のいのちなのです。復活の主イエス様の内には、尽きることのない愛が満ちあふれています。イエス様を十字架につけたのは、他でもない私たちの罪だったのではありませんか。そんな私たちの罪を赦(ゆる)そうとする、いや赦してやまないイエス様の大きな愛が、死を打ち破り、復活の勝利を実現してくれているのです。「あなたがわたしを十字架につけた罪は、もう帳消しにされています。あなたには死に打ち勝った永遠のいのちが与えられています」と言って、十字架と復活の主が私たち一人一人に現れ、声をかけ、共にいてくださるとは、なんと驚くべき恵みでありましょう!
この驚くばかりの恵みを深く体験するとき、私たちは自然に14節へと導かれます。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、その願いを神は全部聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」。「何事でも」という言葉が最初にありますが、これは「神のみこころにかなう願い」と結びついています。神のみこころは、私たちが愛を実践することです。そのために神は私たちを愛し、私たちに愛を注いでくださっています。神のみこころにかなう願いとは、《神様の愛に応えて、私たちが人を愛し、兄弟姉妹を愛するようにしてください》という願いです。そのような願いであれば、何でも間違いなく聞いていただけます。
聞かれる祈りとの関連で、祈りが聞かれないとはどういうことか、という逆の問いかけもされます。かつて「聞かれない祈りの祝福」という逆説的な題の説教を読んだことがあります。聞かれない祈りがあるとすれば、「自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」(ヤコブ4:3)。自分の欲望のためにいくら願っても、聞かれないことが多いでしょう。しかし、神のみこころにかなう願いであるなら、100パーセント聞かれます。御子をお与えくださった神の愛に感じて、私たちも愛を実践するようにと願う祈りは、必ず聞かれます。そのため「イエス様の愛を豊かにください」と願う祈りも、100パーセント聞かれるのです。
私たちにとって必要な祈りは、これしかないのではないでしょうか。キリストの愛が私の心に満ちあふれているならば、もう言うことはありません。キリストの愛をください! この願いに神様は100パーセント答えてくださいます。「これこそ神に対する私たちの確信です」。それで15節にあるように、「私たちの願うことを神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」。
キリストは、私たちに愛を与えようと、いつも待っていてくださいます。いつ、どんな場合でも「愛をください」と願うなら、イエス様は少しも面倒くさがることなく、待っていましたとばかりに愛を惜しみなく与えてくださいます。「[私の]戸の外に立ってたたいて」おられるイエス様は、「お入りください」と言って戸を開くなら、すぐにもお入りくださり、私の内に愛をいっぱい注いでくださるのです(→黙示録3:20)。
このことを深く体験させられると、信仰生活は本当に喜びとなり、感謝にあふれたものになります。私たちの願いが聞かれたという感謝と喜び、願いを聞いてくださった神様への心からの賛美こそ、キリスト者に最もふさわしい祈りではありませんか。それは前にも述べた《領収書的祈り》です。これこそ祈りの本領ではないかと思います。
もちろん、時には必要があって、神様に願い求めることがあります。そのように願い求めるだけの《請求書的祈り》は、しばしば度を過ごして、自分の欲望をかなえてくれるようにとの願いになりやすいのです。聖書には「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)、「望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」(ローマ12:12)と勧められています。このように望みを抱いて喜びつつ絶えず祈る祈りとは、《御子の愛に満ちた永遠のいのちを私たちが持っている》という確信から生まれてくるものなのです。
16、17節には、ちょっと難解な言葉が出てきます。罪には「死に至らない罪」と「死に至る罪」があり、後者については「願うようにとは言いません」とあるのです(16節後半)。前者については、神に願えば赦されます。しかし、願っても赦されない「死に至る罪」があると主張するこの箇所は、難解として知られている箇所の一つです。
イエス様は、マルコ福音書3:28、29で、「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神を汚すことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊を汚す者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえに罪に定められます」と言われています。聖霊の最大のお働きは、私たちにイエス・キリストを知らせてくださることです(→ヨハネ16:14)。すると、聖霊によって示されるキリストの愛と恵みを拒むことが、「死に至る罪」を意味することになるのではないでしょうか。
イエス様は今、[聖霊によって]だれのそばにも立っていてくださいます。そのイエス様を受けようと思えば受けられるのに、受けようとしない。イエス様は、私たちのところに来ようとしておられます。そのイエス様を迎えようと思えば迎えられるのに、迎えようとしない。「死に至る罪」とは、そういう態度のことを指しているのです。そういう態度の人には、いくら「罪が赦されるように」と願っても聞かれるはずがありません。
イエス様はいつでも私たちの内に入ろうと待機しておられるのですから、ただ喜んで迎え入れればよいのです。そのように喜んでイエス様を迎え入れることが、ザアカイが身をもって証ししてくれたように(ルカ19:6)、私たちの信仰なのです。この信仰があれば、私たちのどんな罪も赦され、イエス様の愛に満ちたいのちを豊かに与えられます。
(『西東京だより』第83号・2011年8月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。