罪というのが原罪(Original Sin)にその端を発していると述べてきましたが、罪とは何かという根本的な定義を二つの言葉によってすることができます。一つ目はこれです。
「信じないことが罪である」
「神を信じないこと、それすなわち罪である」というものです。これに関しては「そんなばかなことあるか」と思われる方もいるかもしれませんが、キリストの言葉がそれを宣言しています。
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16:8、9)
ここで「その方」というのは、聖霊を指しています。キリストの言わんとしたことはこうです。キリスト自身ですら明らかにしないことに関して、聖霊なる方が明らかにする。その方は皆が誤解している点について、正しくクリアにする。その誤解している点は大きく言って三つあるが、罪について、義について、さばきについて、である。その中で、罪についてというのは、「信じないことである」というのです。
当時の律法の専門家たちは、安息日にどれほどの重さのものを持ったら罪になるとか、手を洗わないことは律法に反するとか、枝葉末節にきゅうきゅうとしたと言いましたが、聖書はこう語っているのです。「罪とは神を信じないことだ」と。それはなぜなのでしょうか?
神を信じないことが罪
私たちが罪を犯すときのことを考えてほしいと思います。罪を犯すとき、大衆の面前で真昼間に事を起こすでしょうか? まれに多くの人の前でそのような暴挙に出る人がいるにはいますが、ほとんどの場合、私たちは人目を避けて罪を犯します。会社や地域では立派な社会人として振る舞っている人のうち、少なくない人がインターネットのいやらしいサイトにアクセスしたり、匿名で暴言を吐いたりしています。泥棒は夜の暗闇がその主な活動時間でしょうし、人気のない場所ではさまざまな犯罪が起こり得ます。同じ人間が、人々の視線の前では立派な人物として振る舞い、闇の中では罪にふけるということがあるのです。
神を心から信じるということは、神様が私たちの隠れた事柄を明らかにし、全てを知っているということをも認めることです。暗闇は人の目から私たちを覆うかもしれませんが、神の前では夜は昼のようであり、隠れおおせることなど一つもありません。ですから、神を信じる者は罪から遠ざからざるを得ないのです。(詩編139篇参照)
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」(Ⅰコリント4:5)
神様が見ているから罪を犯さないようにしようという、消極的な動機が発生するだけではありません。神を信じる者は神様と同じような者になりたいと望むようになるものです。神様は聖であり善なる方ですが、神様を信じる者にはそのような者になりたいという積極的な動機が発生するのです。自分の親が立派な人で貧しい者を助ける憐れみ深い者であったなら、その子どもも親の背中を見てそのスピリッツを継承します。同様に神を信じる者たちは不完全であるかもしれませんが、神様の品性を受け継いでいくのです。
また、神を信じないというのは、自分を造ってくれた方を無視するということなので、これ以上に大きな罪はありません。もしも皆さまの子どもが自分のことを親と思わずに、無視するなり、誰か他の人を自分の親だと言い出したら、どう思うでしょうか? 非常にさびしい思いになると思います。私は心から願います。全ての人が、皆さまを愛してやまない魂の親である神様を信頼され、その愛の中に留まり、これ以上まことの神様を無視したり、神ならぬものを自分の神とすることがないことを。
キリストを信じないことが罪
最初に、聖書の箇所で罪については「わたしを信じないからです」とありました。これをピンポイントで解釈すると、キリストを信ぜず、拒絶することが罪だということになります。前回のヨブの箇所でも少し触れましたが、今後の主題になるのが「福音」についてです。福音においてはキリストの十字架による救いと贖(あがな)いがメーンテーマになります。このキリストの無償の贖いを拒絶することこそが最大の罪となるというのです。少し厳しい聖書箇所なので拒絶感を抱かれる方もいるかもしれませんが、聖書の原則を押さえるために二つ引用しておきます。
「・・・信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)
「・・・しかし、信じない者は罪に定められます」(マルコ16:16)
罪の正反対は「義」となり、「義」は信じることによって与えられます。キリストは「義」についても言及されています。
「また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」(ヨハネ16:10)
なぜ「見なくなる」ことが「義」となるのでしょうか? それは見えるものは信仰の対象とはなり得ないからです。例えば、目の前の机を見て、「私は、誰が何と言おうとも、机が前にあることを信じます!!」とは言わないでしょう。それはもう、厳然と目の前にあるから、信じる必要などないのです。
キリストが復活したことを目撃したという他の弟子たちの言葉を信じられなかったトマスという弟子がいますが、彼は自分の目で見て、手で触れない限りそんなことは信じられないと言いました。そんなトマスにキリストはご自身を見せられ、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と語り掛けます。これに驚いたトマスはとっさに「私の主。私の神」(ヨハネ20:28)という信仰告白をしますが、それに対してキリストは以下のように答えられました。
「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです』」(ヨハネ20:29)
見て信じるのは、信仰とは言いません。ですから、キリストが「父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる」ことが信仰につながり、それが義につながるのです。
つまり「義」とは、全ての律法を完璧に守ることではなく、目に見えないけれども私たちを愛してくださっている神を信じ、私たちのために贖いを成し遂げてくださったキリストを信じることであり、「罪」とはそのことを信じないことなのです。
【まとめ】
- 神を信じる者は、人が見ていても見ていなくても罪から遠ざかる。
- 神を信じる者は聖なる神のようになりたいと欲っする。
- 義とは目に見えない神の愛と、キリストの贖いの恵みを信じることである。
- 罪とはそれらを信ぜず、拒絶することである。
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