定義
前回、罪とは「信じないこと」であると書きましたが、今回はもう一つの定義について書きたいと思います。それは、愛さないことが罪であるということです。
世の中では、警察に車を止められて、「お前には、愛がないな・・・よし逮捕だ」ということにはなり得ません。ですから前回の「信じないことが罪」に引き続き、神の前での罪についてであり、これらは一見すると世の常識とはかけ離れたものとなり得ます。しかしそれは「一見すると」であり、そこには全ての罪の根があります。これまで「律法(戒め)」と「罪」について、さまざまな角度から書いてきましたが、シンプルに言うと、律法は「愛しなさい」という一言に要約することができると説明してきました。そして律法を犯すことが罪なのですから、愛さないことが罪なのです。
盗みや殺人や隣人の妻と姦淫をすることは「愛がない」から起こるのであり、悪口や陰口・ネット上での誹謗(ひぼう)中傷も同様です。何より、警察の踏み込めない領域(心)において、罪は発芽するのですが、心の中で憎んだり嫉妬したり隣人のものを欲しがったりするのも、相手を尊重し、愛する心がないために起こります。こう言いますと、いやいや世の中には「愛憎」という言葉もあるように、愛するからこそ憎んだり嫉妬したり、時に殺意すらも覚えるのだと言われるかもしれません。これについては、どう理解したらよいのでしょうか。
二つの愛
実は「愛」という言葉はさまざまな概念を含意していますので、愛を論考することは容易ではありません。仏教では10以上の少しずつ意味の異なるサンスクリット語を、「愛」という一つの漢語に翻訳したとのことですし、キリスト教においても4つのギリシャ語の「愛」について語られたりします。今回はそれらを2つに大別してみたいと思います。すなわち「求める愛」と「与える愛」です。求める愛というのは、仏教用語では「渇愛」と表現されますが、少し辞典から引用してみます。
「梵〈トゥリシュナー tnol´〉、巴〈タンハー talh´〉:〈愛・渇愛〉。原義は〈渇き〉で、英語〈thirst〉、ドイツ語〈Durst〉と対応し、英語〈dry(乾いた)〉などと同源で、〈十二支縁起〉の一つとして、〈苦〉の原因とされている。際限なく増大してゆく〈欲望〉というのが、仏教の基本的な、愛の見方である」(日立デジタル平凡社刊世界大百科辞典より引用、参照サイトはこちら)
ギリシャ語の「エロスの愛」というのも、相手を思いやるというよりは、自己の欲求の充足を目指しています。最近、私は犬を飼いたいなと思っていろいろと調べたのですが、ペットに愛情を注ぐという行為も、人間の寂しさや孤独を充足させるための自己本位の行為になる場合があります。もちろん、最後まで良好なパートナーシップを持つ方々も多くいますが、一方で人に消費され捨てられたペットたちは毎年30万頭以上殺処分されているとのことです。
これら「求める愛」というのは、「愛」という言葉を使いはしますが、聖書が語る「愛」とは異なる概念といえます。では与える愛はどうでしょうか。身近なところでは、親の子に対する犠牲的な愛が思い浮かびます。これは人間の持ち得る最高の「愛」と言えますし、素晴らしいものですが、「欠け」や「限界」を持っています。それは「わが子」のみを愛するということです。私たちは同時に全ての人々に分け与える力がありませんから、他の子や人々の困窮や困難には目をつぶらざるを得ないのです。それでも、人との関係において、「求める愛」よりも「与える愛」の方が優れていて、多くの良い結果を結びます。
「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」(使徒20:35)
聖書の「愛」の性質
聖書の語る愛の性質について、以前も引用したので重複とはなりますが、Ⅰコリント13章を引用しないわけにはいきません。これは非常に簡潔で力強い言葉ですので、何の追加説明もいらないでしょう。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません・・・」(4~8節)
私たちが本当にこのような愛を持つことができるなら、「愛しているよ」と言いながら相手に多くを要求したり、傷つけたり、はたまた憎んだりすることはないのです。
三者への愛
西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を好んで使ったことは有名ですが、私の恩師であるJTJ神学校創立者の岸義紘元学長は「私たちは愛する時に、三者を愛するのです」とよく強調してくださいました。すなわち神様を愛し、隣人を愛し、自分自身を愛することです。最初の二つは分かるにしても、「自分自身を愛する」というと、先ほど触れた「求める愛」や「自分本位の愛」になってしまうのではと思われる方もいるかもしれません。確かに自己の肉体の欲求だけを満足させようとするとそうなるでしょうが、私たちには肉体だけでなく霊魂があると書かせていただきました。いくら肉体に快楽を与えても、結局この肉体はいつか消滅するのですから、本当の意味で自己を愛しているとは言えません。真に自己を愛するとは、永遠の存在である私たちの魂を神の愛の中に安らがせることであり、最高の幸福とは、隣人と愛の豊かな関係を持つことなのです。これら三者を愛することには、何の矛盾も葛藤もありません。それどころか、三者に対する愛のうち一つでも欠けると、それは聖書の言う本当の「愛」とは呼べないのです。
愛すること&信じること
前回私は「信じないことが罪」だと書き、今回は「愛さないことが罪」だと書かせていただいていますが、信じることと愛することは本質的に同質のものだということができます。敬愛する三浦綾子氏の著作の中にも、『愛すること信ずること』(講談社文庫)という本がありますが、両者は切っても切れない関係なのです。神様を愛するということに関しても、神様を信じることなしに愛することはかないませんし、愛のない者は神を分かることも信じることもできません。
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4:8)
キリストの危惧
しかしこの最も大切な「信じること」と「愛すること」が時代を経るごとに失われていくことを、キリストは世を去る前に最も危惧されました。
「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)
「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」(マタイ24:12)
ですから私たちは、「今日」と言われる時に、互いに愛し合い、信仰を励まし合わなければならないのです。
愛さないのではなく、愛せない人類
とはいえ、私たちが自分の力で真の「愛」と「信仰」を持ち得ないことも認めるべきです。聖書の戒めとは、以前書かせていただいたように、「心を尽くして」「汝の敵をも」「自分自身のように」愛せよというものであり、信ぜよというものです。しかし正しい事を「せよ」と言われて皆がそれを実行できるなら、世の中には警察も裁判官も不要でしょう。
「信じないこと」「愛さないこと」が罪であるなら、私たちは信じ愛せばよいのでしょうが、それができないからこそ私たちは「罪人」なのです。それでも自分には愛があり、私は罪人ではないと言う方がいるとしたら、その方は自分自身を欺いているのであり、神よりも自分を正しいとしているのです。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。・・・もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」(Ⅰヨハネ1:8~10)
福音の希望
しかし気分を害する必要はありません。私たちが自分の愛のなさや罪深さを認めることは真の希望につながっていくからです。それは「福音(ゴスペル)」と呼ばれるものですが、次回以降、その「広さ、長さ、高さ、深さ」を共に味わっていきたいと思います。
【まとめ】
- 罪とは愛さないことであり、愛がないからこそ、私たちは行為・言葉・思いにおいて罪を犯す。
- 愛には「求める愛」と「与える愛」があり、後者の方が優れているが、それにすらも「欠け、限界」がある。
- 聖書の説く愛には美しい調和があり、そこには何の矛盾も葛藤もない。
- 信じることと愛することは本質的にイコールである。
- 私たちが罪人であり、愛がないことを認めるとき、私たちは福音を求め始め、それは真の希望につながる。
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