これからいよいよ「福音(ゴスペル)」の本質に迫っていきたいと思います。今まで律法がどうの、罪がどうのと前置きをさせていただきました。それは、影がないと光が分からないように、また病気になったことがないと健康であることがどれほど幸せなことか分からないように、律法(戒め)の本質と限界、また人間の抱えている絶望的な罪の現状を知ることなしに、福音の素晴らしさを真に理解することは不可能だからです。
私は10年以上深刻なアトピー性皮膚炎で苦しみ、最もひどかった時は朝起きると体液がこびりついて枕から頭が離れないほどで、仕事も勉強もできず、一年ほどの自宅療養の時を過ごしました。そのような絶望的な状況でしたから、その後少し病状が改善し、家の周りを散歩できた時の感動は忘れられません。ただ普通に風を感じ、大地を踏みしめて歩くことがとても心地よく、涙が止まりませんでした。私たちが本当に自身の絶望的な罪深い現状と、福音の恵みに気付くとき、その感動は言葉では言い表せないものとなります。
さて、これまでの内容について、もう一度簡単に整理しましょう。
- 律法とは正しい神の言葉であり、要約すると極みまで「愛しなさい」となる。
- しかし人間は、誰一人その言葉を実行することができない。
- そのことによって自分の内に罪があること(愛がないこと)を悟ることができる。
- 罪人であることを悟った人は、神の前に悔い改める。
そしてこの悔いた人に対して響くのが、神の愛と赦(ゆる)しのメッセージである「福音」です。福音についてはある程度理解されている方や、初めて聞くという方などさまざまでしょうが、まずは基本的な点を押さえていき、徐々にその「真意」を皆様と共に味わっていきたいと思います。
■ 取税人や遊女が先に
まずは、度々語られる有名な箇所ですが、こちらを引用してみましょう。
「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです』」(マタイ21:31)
取税人とは、当時ローマの属国であったイスラエルの国において、同胞のユダヤ人からローマの手先となって税を徴収していた人たちのことです。彼らのうち少なくない者たちは定められた額以上に税を徴収し、私腹を肥やしていたので、皆に後ろ指を指されていました。遊女というのは、売春婦のことです。ところで、イエス様は端的に「取税人や遊女たちが先に福音を受け入れるだろう」と語っています。なぜでしょうか?
それは取税人や遊女たちは、自分が清廉潔白でないことを自ら、承知していたからです。「灯台下暗し」などと言いますが、案外と人間は自分のことが分かりません。さすがに自分のことを聖人だと主張する人は少ないでしょうが、多くの人は「私は人並みに正しく生きている」「人様に後ろ指を指されないようにしてきた」「自分は罪人ではない」と思っています。このように自分を正当化してしまうと、福音が心に響くことも、それを受け入れることも絶対にできません。だからイエス様は、なまじ自分を正しいと思っている人よりも、取税人や遊女のほうが先に福音を受け入れて神の国に入るだろうと教えられたのです。
現代においても、多くの前科者、アルコール中毒者、薬物中毒者、暴力団の方々などが、神様の愛と福音の恵みに触れられて、変えられ、人や社会に奉仕する非常に生き生きと輝いたクリスチャンとして歩んでおられます。前にも少し触れさせていただいた三浦綾子氏の作品の中に、このような場面が出てきたのを記憶しています。
妻には暴力をふるい、金をせびり、酒ばかり飲んでいた男性が、最後の最後にとてつもない美しい絵を描き残していくというような内容です。その絵というのは、小手先のものではなく、この男性のピュアな内面性が表れているというようなものでした。私は学生の時に、このような人間理解の深さと温かさに触れ、衝撃を覚えました。
私たちは、絶望的な罪人であるとしても、同時に皆が至高なる神様のMasterpiece(最高傑作)ですので、福音の恵みに触れるときに本来の姿を取り戻すことができるのです。
こう書きますと、中には「私は前科者やアルコール中毒者、薬物中毒者、暴力団などではないし、取税人や遊女でもないので、神様の愛や福音の恵みとやらは必要ないな」と言われる方もいるかもしれませんし、「私も、もっと多くの罪を犯しておいて、劇的に変えられたかった」と思われる方もいるかもしれません。それらに関しては、後日詳しく書かせていただきたいと思います。
■ 身代わりの犠牲
それでは、神様はどのようにして自分の罪を認めた人々を赦されるのでしょうか?「あーもうよいよい、余が一存で赦そう」と宣言されればよいのでしょうか? 確かに神は絶対者ですから、神が赦すと言えば、誰も文句を言うことはできないでしょう。しかし、神様はそうはなさいません。と言うよりはそうすることができません。なぜでしょうか?
それは、神様が正しく義なる方だからです。
これにはちょっと説明が必要です。例えば最高裁判所の判事が、連続殺人事件を犯した凶悪犯を裁くとします。その時に、その罪人が心から自分のしたことを後悔し、涙を流して罪の赦しを請うたとします。その時に正しく義なる裁判官は、どのような判決を下すでしょうか?
「私はこの人が深く悔いているのを見て、赦しと哀れみの心が生じた。だからこの人は無罪である」
もしも裁判官が情に流されてこのような判決を下すとすると、この裁判官は正しい裁判官だとは言えません。正しい裁判官であれば、多少情状酌量の余地があり、刑を軽くすることはあるかもしれませんが、無罪にすることはできないのです。
神様も同様に、何の根拠もなく罪を赦すことはできません。それは、神様が正しく義なる方だからです。しかし一つだけ正当性を失わずに、人の罪を帳消しにする方法があります。どんな方法でしょうか?
それは、誰かがその罪人の身代わりとなってその刑を身に負う場合です。
『走れメロス』という太宰治が書いた物語があります。その中でメロスは義憤のゆえに王の政策を批判し、王の逆鱗(げきりん)にふれ磔刑(たっけい)に処せられることになるのですが、たった一人の妹の結婚式に出席した後戻ってくると言って、3日間の猶予を王に請います。しかし、その言葉を信用しない王に対して、セリヌンティウスという友人が身代わりの人質になってくれることになります。王はメロスに対して、「ちょっとでも遅れてくれば、お前の友を処刑し、お前は無罪放免する」と耳打ちします。結果的には、メロスが3日目の時間ぎりぎりに戻ってきましたので、友セリヌンティウスが処刑されることはありませんでしたが、身代わりの人が処刑される場合、当人の罪は赦されるのです。この「身代わりの犠牲」というのは、福音を理解するために絶対に必要な概念となります。
■ 血(命)が支払われる
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である」(レビ記17:11)
この「身代わりの犠牲」というのを少し難しい言葉で「贖(あがな)い」と言います。そして聖書はこの贖いのためには、「犠牲の血」が必要であると言っています。実際に、旧約聖書の時代には人々の罪を贖うために、牛や羊が屠られ、その血が神の祭壇にささげられました。
なぜ「血」なのかといえば、聖書によると血こそが命そのものだからです。「肉のいのちは血の中にある」と今確認した通りです。
しかし、旧約時代に行われていた動物の血の犠牲では、人の罪を贖うのに不十分であるとも新約聖書は解説しています。少し長いですが、ヘブル書を引用しておきます。
「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません」(ヘブル10:1~4)
では、どのような血が必要なのでしょうか。来週にまた続きを書かせていただきます。
【まとめ】
- 福音とは、律法を通して自身の罪を自覚した者に語られる神の恵みと赦しである。
- 自己の罪を認めず、自己を義人とする者には、福音の言葉は響かない。むしろ取税人や遊女たちが先に福音を受け入れる。
- 神は全能者であっても、何の根拠もなく一存で罪を赦すことはできない。それは神が正しい義なる方だからである。
- 赦しには必ず身代わりの犠牲(血)が必要である。血とは命そのものである。
- 動物の血では人類の罪を贖うことはできない。
◇