正直に神様にぶつけてみる
生死に関わるようなことや、会社の倒産の憂き目に遭うか、遭わないかというようなことや、その他、本当に重大なことに関して考えるとき、なかなか神のみことばと自分の考えるところが一致しないことがある。というよりも、自分の願う事はすんなりと述べることができるが、神の求むるところは、怖くて述べることができないときがある。みこころのようになさってくださいとは怖くて言えないときである。結局は、全面的に神様に委ねることをちゅうちょしている不信仰者である。
逆方向に一歩進んで、聖書を批判的な目で見ていたときもあった。これは、自分の意思で神を批判していることであり、こういう否定的な態度は決してとるべきではない。
しかし一方で、疑問を持つことは人間として当然であり、うやむやにしてうのみに信じているよりはマシである。疑問は疑問で、そのまま神様に正直に申し上げる習慣をつける。私たちが正直に言う、言わないにかかわらず、神様は、すでにご存じなのであり、神様は私たちの心の正直なことを調べ、また望んでおられる。義と愛の間で、私たちが揺れ動いたり、怖くて祈れなかったりするときでも、それをそのまま神様にぶつけてみる。神様は必ず何らかの返答を下さると信じている。
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」(詩篇1:1)
◇
米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。