祈りは本当に力があるのか
私は信仰を持ってから、数え切れないほど祈ってきたけれども、心のどこかに不信感のようなものがあった。つまり本当に効果があるのだろうかという気持ちがどこかにあった。
しかし、私が今年初めにがんを患っていることを宣告された時、奈落の底に落ちたような、どうしようもない落胆を覚えた時、まず縋(すが)りついたのは“祈り”であった。祈ってほしいということであった。牧師先生をはじめ、できるだけ多くの教会員に祈ってほしいと心より思った。死に直面して、不信を持っていた祈りに第一に縋った。つまり、不信はあったが、それ以上に信仰も持っていたのだろうか。自分の心が分からない。しかし直後に、平安の第一波が来たことも覚えている。
一口に治療といっても、いざ自分が当事者となって経験してみると、決して淡々としたものではない。対象となるのが生ある人間である以上、正に予想もしない状態が起こる。大体1週間ごとに診察してもらっていたが、正に毎回違った状態であり、医師と違って、初めて患者となった私にとっては、一喜一憂の心理状態であった。しかし好ましくない状態の時でも、一時は落ち込むが、そんなに長期に至らなかった。この時もお祈りの力を感じた。妻や息子や牧師先生や、多くの教会員の背後の祈りの力を感じた。そのおかげで、立ち直りも早かったのだと思っている。
今は腸の手術を終え、肝臓の手術を終え、つかの間の解放された日を終えて、新しく始まる治療を明日に控えている。表面化されたがんを除去してしまった今後、再発、転移のないことを祈りの課題としようと思う。
祈りには、明瞭なる課題が絶対必要である。
「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ5:16)
とともに、公にして祈り合うことが絶対必要である。
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」(ヘブル10:25)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。