子どもたちは、幼児期に楽しい思い出を残してくれる。けれども成長するにつれ、反抗期という嵐が吹き荒れる家庭も・・・ある(笑)。うちもそうだった。まったく、笑い事ではありません、あの時期は。
長男は、内面はどうあれ、ストレートには反抗的な態度は取らなかった。上手に小出しにしていたと思われる。
けれども二男は荒れた。
最初は、彼が小学4年くらいの時、「親に同行しない」ことから始まった。家族キャンプも、買い物も、外食も、次第についてこなくなった。それでも、大好物の「回転寿司」や「モスバーガー」にはぶすっとして誘いに乗ってくれていたので、ぎりぎりまでその手を使って私は息子とデートしていたのだが、小5のある日、いつもの手でモスバーガーへ誘うと、目をきょろきょろさせて尋ねてきた。
「母さんと二人で行くん?」
「そうよ~」
「二人だけで?」
「うん」
Bはいっそう激しく目を動かした。
「誤解されたらどうするん!?」
ああ、なんてかわいいこと言ってくれるの、と、心楽しんでいたのはつかの間、そのうち笑い事ではなくなった。特に二男から長男への反発・嫌悪感がものすごく、長男は人生最大の親友である弟が変わったことに最初は戸惑い悲しんだが、それを受けて立った。
二人が高校生になったある日、息子たちの部屋がある2階から激しい物音が聞こえてきた。上がってみると、二人取っ組み合いのけんか。血が点々と落ちている。それだけで私はもう仰天。やめなさい、やめて、と声張り上げてみても、二人の耳には入らない。
けんか終了後、現場検証してみると、飛び散っていたのは鼻血と判明。倒された方が顔を打って鼻血が出て、めげずにその手で相手の足をすくって倒し、あとはもう、どったんばったんだったらしい。
やはり息子だけを持った友人がいるが、「高校生の息子たちが取っ組み合いのけんか始めたら、もう母親の出る幕なし!そばで泣くしかないわよ」と教えてくれたことがある。そのころ私の息子たちはかわいい盛り、仲良しだったからぴんと来なかったのだが、目の当たりにして、納得した。
二男の反抗は、親である私たちに対しても向けられるようになった。
あのころをどのようにして乗り切れたかというと、
わが家は毎晩短い家庭礼拝をしていた。当然二男は出たがらないが、そこだけは私たち親は妥協しないで参加させた。家庭礼拝の最後は、手をつなぎ輪になって頌栄を歌う。当然二男は手をつなぎたがらない。それを私がぐいっと引っ張って、輪に入れた。
二男は優しさも思いやりもしっかりある子だ。けれども少しでもそれを家族に見せると自分にひび割れのようなものができて、そこから優しさが噴出し壊れ、自分のそうしたものが周囲の家族に分かってしまう、それで必死で正反対の態度でこてこてに(笑)ガードしているのではないか? そんな風に思えたのは、母親の欲目だろうか?
思春期のころ、精神に渦巻く負のエネルギーはものすごいものがある。そして本人もそれをコントロールできないと、私自身の過去を振り返って思うのだ。
実は私も中高生のころ、家庭に反抗の嵐を巻き起こしていた。二男のターゲットは長男だったが、私の矛先は申し訳ないことに同居していた祖母に向かった。しかし祖母は、最後まで私を許しかばい、優しかった。そしてその時期が過ぎ去ると、次は私の妹が私を反抗のターゲットにするようになり、やがてそれも収まった。
その記憶があったので、私も二男を見限ったり手を離したりしないようにと必死だった。毎晩の家庭礼拝の最後、願いを込めて二男の手を引っ張って握り、頌栄を歌った。
知り合いの牧師夫人もこんなアドバイスをしてくださった。
「Aくん(長男)とBくん(二男)は、赤ちゃんのころから年子で双子のように仲良しで育ったから、別個の人間として自立するために<ものすごい>時期があるのが普通なのよ。その時期が過ぎたら、嘘のように穏やかな関係になるわよ」
そうなのか? そうかもしれない。と、私は目の前の二男の形相や(笑)悪態(笑)には目をつぶり聞き流し、あくまで家庭礼拝は死守(笑)し続けた。
いやもう、ハンパない数年間でした。ほんま。
半端ない嵐の数年間、私を支えてくれたものがもう一つある。息子たちの幼いころの思い出だ。
ここからちょっと息子ののろけにおつきあいください(^^♪
問題児だった二男も、幼いころは「母さん 命!」な男の子だった。
夜の洗面所、大きなクモが現れ、私が悲鳴を上げると、走って駆け付け、ほうきで追いまわし退治してくれた。蜘蛛が隙間に逃げ込むと、しばらくほうきを構えて隙間をにらみつけ、「また出たら、ボクに言いなな。すぐ来てあげるきんな」。
まだある。
彼が小学校低学年のある日、会社から帰った夫が台所で鍋のふたを開け、
「お、今晩のおかずはお母さんか♪」
と言った。(そのころの私は、今以上におデブさんだった。そしてその夜のおかずは豚肉の肉じゃが・・・)
台所に続く居間で宿題していた二男はそれを聞いて、鉛筆も何もかも投げ出してワアワア泣き出した。どうやら本当に母親である私が料理されたと思ったらしい。
本当の私が現れて二男の恐怖は収まった。私は内心、「なんて愛いやつ」とうれしかったものだ。あのころは、わが人生最大のモテ期だった。
長男は2年ばかり大学浪人したのだが、自分の親のフトコロ具合はよ~く知っているので、お金のかかる予備校は最小限にとどめ、自宅で勉強していた。そして、足の悪い私をよくいたわり手伝ってくれた。
例えば、買い物。できるだけ同行してくれて、カートを押す私が、
「あ、ネギ忘れた」
とつぶやくと、走って野菜売り場まで取りに行ってくれる、レジの順番が来るとさっと重いかごをレジ台に移し、支払いが済むとかごを袋詰めの台へ運び手際よく入れる、さらに車までそれを運び積み込んでくれる、という具合に、かゆいところに手が届くエスコートぶりだった。
だから、長男が大学へ行ってしまって2カ月ばかりは寂しかったし、不便(笑)だったことこの上ない。地方の子どもは、大学進学するとそのまま都会で就職することが多い。もう長男と同じ家で生活することはないのかもしれないと、4人分から3人分に減った食材をカートに入れながら一人買い物した。
息子思春期の反抗期を台風で荒れ狂う海に例えるなら、現在は穏やかな金魚池(笑)である。二男は、荒れた高校時代を終え、長男より一足先に就職した。職場の人間関係や厳しい勤務を続けること、そして経済的な自立は彼に自信を与え、働いてきた父親への尊敬も芽生えさせたと思う。次第に大人になり穏やかになり、今では家のメンテナンスも、夫と談笑しながらよく手伝っている。大卒後就職した長男にも、「最初は大変だけどそのうち慣れるよ」などと先輩としてのアドバイスをしたりしている。
<家庭内で家族が普通に会話を交わしている>ことは普通であって普通ではない、これほど感謝なことだとは知らなかった。
日曜日におぎゃ~と生まれた息子二人は、紆余曲折、嵐の時期を経て全く異なる道を歩いている。性格も、誰が教えたわけでもないのにまるで違っている。
カトリック作家曽野綾子さんのエッセイに、こんなエピソードがある。
若いころの曽野さんが男女混合で湖へ遊びに行った。雨が降り始めると、ある青年はシャツを脱いでランニング姿になり、もう一人は用意していたレインコートを羽織った。
「この光景は、二人の青年の将来を驚くほど暗示していた」
と、曽野さんは書いておられる。
シャツを脱いだ青年は、新興国へ行って土木を指導する働きに就き、レインコートを持参していた青年は、緻密な事務系の仕事で用いられている。
「どちらが良いとか悪いとかではない。あとはどちらの性格を好むかであろう」
と、しめくくられている。
私にも、息子たちの将来を暗示するある風景が焼き付いている。
まだ反抗期という嵐前夜(笑)、ある回転寿司での出来事。
長男は、流れる寿司には手を出さず、メニューを見て「こだわりネタ」をカウンターの中の板前さんに注文し、ゆっくり皿を空けていく。とても時間がかかった。
二男は、目の前を流れていく皿から好みのものを次々ゲットし、皿を積み上げていった。
二人の食べ方は対照的でとても印象深く、今思えば暗示的で。
そして・・・あれから十数年。
長男は、近い地元の大学複数に合格したにもかかわらず、それを蹴って2年粘って浪人、時に親である私たちをいら立たせながらも、最終的に目指す大学に入学した。
二男は、大学入試も進学も避けて(笑)最初に内定した地元の企業に入社、数年せっせと貯金して愛車を手に入れた。現在は、同じように地元で就職したクラスメートたちと野球チームを作り、人生の皿を楽しく積み上げている。
息子たちは、当然同じ親から生まれ同じ家庭で育った。それなのに、驚くほどの個性の違い! 曽野綾子さん流に言えば、
「あとはどちらを好むかどうか」
?
いえいえ、私はどちらも好みです(笑)。
最後に、
この連載は今日で終わります。タイトルの<合言葉はあいらぶゆ>は、私が夫や息子たちとメールでやりとりするとき、メッセージの最後に「あいらぶゆ」と付け加えることから付けました。
息子たちが初めて携帯電話を手にしたころは、それでも「あいらぶゆ」とか「ゆうらぶみ」な~んて返してくれたのですが、そのうち二男には無視されるようになり、長男は気を使って儀礼的に返してくれるけれど・・・ほとんど一方通行の愛の告白(笑)になってしまい。
ま、それが、息子が男性としてまっとうに成長しているということでしょうか。
でも、それはそれ、これはこれ。
母はめげずに いつまでも、
<<合言葉は「あいらぶゆ」>>
【おわり】
(文・しらかわひろこ)