キリスト教会では、日曜日にみんなで神様を礼拝する。私も、出産後1カ月ほどして外出できるようになると、毎週日曜日には、おむつやミルク、そのうち離乳食やおやつなどを用意して、息子同伴で教会へ行った。
ほとんどの教会には、赤ちゃんや幼児を連れた母親のための「母子室」がある。
幼い子どもや赤ちゃんは、時に騒がしい。子ども連れで会堂での礼拝を守るのは気兼ねすることだ。母子室には絵本やおもちゃが備えられているし、礼拝堂へは音があまり漏れない工夫がされているので、母親はスピーカーから流れてくる礼拝の模様や牧師のメッセージを聴きながら礼拝に参加できるのだ。
余談になるが、当時私が使っていた手帳には、息子たちが大好きだったアニメやドラマのキャラクターがたくさん描かれている。会議中など静かにしてほしいときに、息子たちが騒ぎそうになるたび、ひそひそ声でリクエストさせ、描いて気をそらせてあやしたものだ。
古い順に手帳を繰ってみると、
とても幼いころは、シンプルなりんごにバナナ、みかんにぶどうなどの果物、ケーキもある。そのうちテレビアニメのアンパンマンやきかんしゃトーマス。これは丸と四角で形がとれた。その後だんだん複雑になり、パトカーや消防自動車、飛行機に移っていって、ヒーローものを好むころには、私の手帳には息子たちのためのイラストはほとんど描かれていない。怪獣やウルトラマン、仮面ライダーなどは複雑で、描くのが難しくなったからだ。
ところがよくしたもので、そのころになると、ある程度の時間は自分でお絵描きしながら座っていられたし、私がいつもそばにいなくても、教会のほかのお友達と遊べる年齢になっていた。
とまあ、幼い子どもや幼児連れで礼拝を守るのは一見大変だが、それを補って余るほどのいいことがある。
一週間に一度、すべての雑用から離れて子どもと過ごせる楽しいひと時でもある。子どもたちも、少し成長すると、
「目に見えないけれど神様がおられて、静かにしないといけないときがあること」
「両親や親族以外の老若男女(笑)の多様な人格や価値観に触れ、かわいがってもらったり、いけないことをしたら叱られたりすること」
を学ぶ、有益な時なのだ。
もう少し年齢がいって、幼稚園や保育園、小学校などの義務教育を受ける年齢になると、ときに日曜日の礼拝を毎週守るのが難しくなる。いろいろな行事が日曜日に当然のごとく入ってくるからだ。
私たちの場合は、地域の保護者と子どもたちのサークル「愛護班」と呼ばれる組織から、日曜日のバス旅行のお誘いを熱心に受けたことに始まった。そのサークルは、会費が高い代わりに、一年を通して活発に行事をしていた。サークルとはいえ農村地帯なので半強制的で、うちもそれに加入していたのだが、とにかく2カ月に一度は日曜日の楽しい行事がある。年に一度はバス日帰り旅行が計画され、それも日曜日にある。
バス旅行は、日曜日には教会へ行く日であることを理由にお断りしたにもかかわらず、毎年の役員さん方が全くの善意と責任感から何度も説得に来られた。
「高い会費のほとんどはこのバス旅行に使われるのに、行かないなんて、お金をどぶに捨てるようなものではないですか。もったいない」
「毎週日曜日教会に行っているんだから、年に一度くらいいいじゃないですか」
とても熱心に。私にあの熱心さがあったら、ずいぶん伝道できるのにな、なんて思うほどに。
善意の勧誘にお礼を言いつつも、毎年丁寧にお断りし続けた。
「保育園や学校の行事も、たいていは日曜日にあるのです。あれもこれも出るために『年に一度くらい』とその都度礼拝を休んでいては、教会に出られる日がなくなります」
幸い息子たちは、私とともに教会へ行くのが楽しく、バス旅行をねだることはなかった。
数年たち、息子たちが小学校3年・4年生になった年の春、変化が起こった。二男の同級生のお母さんが愛護班の会長になったのだ。
「ひろこさん、行事のとき子どもたちと一緒にできるゲームを教えて!」
私が教会の子ども会を毎週公園で開き、楽しくゲームしていることを彼女は知っていた。彼女の子どもたちもそれに参加した時期がある。
私は、愛護班でできるゲームをいくつか彼女に伝授し(笑)、一つお願いした。
「いつも日曜日の行事のお手伝いできなくて申し訳なく思っていたの。今年も午前中のお手伝いはできないと思うけど、その代わり、年間の印刷物をワープロで打ってコピーするのは全部引き受けるから。お手伝いさせてもらえないかしら」
彼女は喜び、最初の総会でこんな提案をしてくれた。
「バス旅行はこれまで日曜日でしたが、学校も土曜休みだし、ひろこさんとAくんBくんもいっしょに行けるように、今年から土曜日に行きましょう!」
なんと、「実は私も土曜日のほうが都合よかったの」という人が何人も現れ、バス旅行はその後毎年、めでたく土曜実施となった。
息子たちもそろそろ母親離れが始まり、友達とのバス旅行に行きたがるすれすれの年齢だったかもしれない。まさにその時期に。
やっぱりこれは、イエス様の優しいお計らいだったと、とっても感謝している。
あのころ、いろいろな人から(善意から)忠告を受けた。
「あなたがクリスチャンで熱心で、日曜礼拝を守るのは自由よ。でも、息子さんたちは別の人格なのよ」「そのうち母親になんかついてこなくなるから。特に男の子は」
私は、バス旅行へ行きたいと願う息子たちを無視して教会へ引きずっていったわけではなかった。まだ幼かったということもあるだろう。年子で生まれたので、息子AとBは二人で遊ぶのが楽しくて寂しさを感じなかったということもあるだろう。とにかく平和にバス旅行を数年休み、その後全く平和に土曜のバス旅行を楽しむことができたのだ。
「子どもは別の人格で、別の人生がある」
ああ、そのとおり。よく分かっています。でも、反抗が始まるその時期になって祈りつつ対応しても遅くはない。まだ何も起こっていないのに、思い煩い先回りして敵に道を譲り、子どもをやすやすと渡してしまうより、ぎりぎりの時期まで子どもと一緒に過ごせることを楽しみつつ、「神を第一とする」ことを伝えるほうがいい。というより、子どもも母親と過ごすことを喜ぶその時期を、精一杯活かすべきではないだろうか。
いずれ敵は現れる。手ごわい敵が。
息子A(長男)は、中学生になると卓球部に入った。翌年、息子B(二男)も、同じ部に入部した。(続く)
(文・しらかわひろこ)