ドライブインのコーヒー② 「母さん」と呼ばれた日
昨日、岐阜に住む息子A(長男)から電話があった。
「かあさん、来週、休みとれた。2~3日帰る」「うれし。久しぶりやね」「うん」「仕事はどんな?」「今度の店長は優しい。こっちが心配になるくらい」「よかった~。安心した。帰る時間とか正確なこと分かったら、また連絡して」「うん」
何の変哲もない、一般的な息子と母親の会話。けれどその後、PCに向かいこの原稿を書いていると、それは普通のことではない、とても感謝なことなのだと、込み上げてくるものがあった。
前回も書いたが、もう20年以上前、当時はまだ幼児だった息子Aは、母音でしか話せなかった。バナナは「あなな」、母さんは「あああん」というふうに。他人が話す内容はすべて理解するし、言葉は彼の内にいっぱいになっているのに、周囲の人には彼の言葉が通じなかった。もしあのまましゃべれないままだったとしたら、昨日のような電話での会話は成り立たず、メールかLINEでしか、やり取りできなかったはずなのだ。
あのころ私は、息子A(長男)に言語訓練を受けさせるため、身障者リハビリセンターへ通っていた。最初は、私自身が戸惑い、傷ついていた。
私たちは、子どもに障害があるかもしれないなどと予期して産んだりしない。何となく、そう、根拠もなく、子どもというものは順序良く発達をしていくものだと思っている。だから、その通りにいかなかった時、足元をすくわれたようにじたばたしてしまう。少なくとも私はそうだった。そして、自分の育て方に原因があったのではないかと悩み、自分を責めた。自己憐憫や自己弁護を繰り返していた。
私の周囲には親族や身内がたくさんいて、「そのうち話せるようになるよ」とか、「大丈夫よ、男の子は女の子と違って言葉が遅いから」と励ましてくれた。善意からであり、ありがたいことだとは思ったけれど、切羽詰まっていた私には根拠のない気休めの言葉に響いた。けれども、「祈っています」という一言には、その人自身が信じる、人知を超えた神様の世界への広がりがあった。
また、悩みのもとだったはずの息子自身が、私の大きな励ましであり支えだった。息子Aと二男のBは続いて生まれた、いわゆる「年子」だ。年齢の近い彼らはまるで双子のように一緒で、よく遊んだ。Aが寂しさを感じないようにとの神様の憐れみだったのかもしれない。そのような二人の姿に、私は慰められていた。
ある日のこと、私が牧師に悩みを訴えていると、Aが私の膝から下りて手を伸ばして私の涙を拭いてくれたことがあった。私は何と弱いみじめな母親、人間だったことだろう。けれども、周囲の祈りによって、私は傷ついたままでは息子たちと向き合えないし、最低限、のんきで明るい母親でいなければということに気付かされた。Aの言葉は相変わらず出ないにしても、私はそのこと自体を感謝し、イエス様を賛美するようになっていった。
Aが4歳(年中児)のころ、神様が御手を動かしてくださった。Aのクラスの担任に、言語に詳しい先生を送ってくださったのだ。その年は、園長、主任、担任というゴールデン・トリオがそろい、Aをケアしてくださった。
4歳半になったころ、テレビでアニメを観ていたAが、キャラクターの真似をして両足でぴょんぴょん跳び始めた。簡単な動作のように思われるかもしれないが、言葉が出ない子は、Aがそれまでそうであったように両足跳びができない。この動作ができるようになると言葉が出るのが間近だと、専門家に言われたことがあった。
その通りになった。ある日、保育園の参観日に行ったのに、Aが席にいない。おかえりの時間で、誰かお当番の子どもさんが前に立って、その日のしめくくりをしている。私は心配しながらAの姿を探したけれど、トイレにも、保健室にもいない。そうする間にもお当番さんの話は続いて終わりが近づいている。ますます不安になり、角度を変えて教室を探す私の目に、すらすらしゃべっているお当番さんのAが見えた。一言、一言あまりにもはっきり発音しているので、声だけではまさかAだとは分からなかったのだ。
そのすぐ後のクラス懇談会で、そのことが話題になった。先生や何人かのお母さんは「よかったなぁ」「うちの子から『Aくん、ようしゃべるようになった』いうて聞いとったけど、あないはっきり話せるようになっとるとは思わんかった」「ほんま、びっくりしたわ」。一緒に泣いてくれた。知らず知らずのうちに、「私ががんばらないと」と孤軍奮闘のように思っていたけれど、本当は周りの人々も、はらはらしながら心を痛めてくれていたのだと知った。
間もなくリハビリセンターの先生からも、「もう、ここも卒業していいですね。これまでどうして言葉が出なかったのでしょうね。不思議です」と合格を告げられた。通い始めて3年目、Aが6歳、Bが5歳になろうとしている春だった。
最後のリハビリセンターでの訓練を終えた帰り道、息子AとBと私は、いつものように府中のドライブインに立ち寄った。相変わらずドライブインを包む山々は優しく、AとBも休憩を騒がしく楽しんでいた。そして私は、いつもの公園のベンチに座り、コーヒーで、一人乾杯した。
ああ、でも、すべてハッピーエンドで終わるわけではない。それからまもなく、Aも私も、神様からの新しいレッスンに入った。
Aのレッスンは、友達関係。言葉が出るまでのAは、保育園の先生方にも保護されていた。周囲の子どもにとっては、「遊んであげなければいけないかわいそうなAくん」だった。それが、ただの「Aくん」になり戸惑いもあったのだろう。友達関係がぎくしゃくした時期があった。
Aは友達を疑うことを知らず、誘われるとうれしくてたまらない。そこに付け込まれて、大切にしていたおもちゃをだましとられたこともあった。AをAとして・・・自分たちよりも勝ったところもあるAくんとして、周囲のお友達が自然に受け入れるようになるまで数年かかった。Aの友達関係は、小学5年生くらいからやっとスタートした。
そして私のレッスンは、子離れ。リハビリへ通っていたころは、Aの言葉は私しか理解できなかった。それで、自然にAと私は密着してしまっていた。でも、Aの言葉が正常に出るようになったからには、それまでと同じではいけない。もちろん、まだ必要とされることもあるけれど、ひとまずはこの適度な子離れレッスンに励まなければならなくなった。とても難しいことだったけれど。
最後に、息子Aの言葉のことがなければ味わえなかった恵みをいくつか書き記しておきたい。第一に、幼い息子A&Bとあれほど密な時間を過ごせたこと。第二に、他の子どもさんの障害の原因を軽はずみに推測し、ご家族をそれ以上苦しめてはいけないということを学んだこと。
そして第三。Aの言葉が出るまでの小さな発達の数々が、どれほど大きな発見であり特別な喜びだったことだろう。もし、Aが順調にすくすく成長していたら、その恵みを当然のこととして見過ごし、感謝も喜びも薄かっただろうと思う。
そして神様は、すばらしい「おまけ」までくださった。ある夜、私はいつものようにAとBを寝かしつけ、Aの言葉のために祈っていたが、その祈りは私がコントロールできないくらい激しくなり、何のために祈っているかさえ分からなくなっていった。その祈りは1時間に及び、そしてその日、夫がイエス・キリストを信じて救われた。
神様は、恵もうとされる家庭や個人に問題や試練をお与えになるのではないだろうか。そして祈りは、意識して祈ったその問題のみならず、私たちが予期しない、とてつもない恵みや素晴らしいことを実現するのではないか、とさえ思う。
神の愛のご計画は、私たちの思いを超えてすばらしく、また神秘的である。
(文・しらかわひろこ)