「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)
あるプロ野球の二軍コーチが言います。「若手選手の中でやがてレギュラーになっていく選手と、ずーっと二軍のままで終わる選手の違いは、技術の差ではなく意識の差です。レギュラーになれない選手は、一軍から二軍へ行くように言われたとき、『二軍に落とされた』と言います。つまり自分が二軍行きを命じられたのは、自分のせいではなく一軍のコーチに見る目がなかったからだと責任転嫁するのです。その表現の中には、弁解と恨みが含まれています。こういう選手に限って、エラーすると道具のせいにしたり、グランドの整備が悪いからだと文句を言ったりするのです。こういう選手は、絶対にレギュラーになれません」
自分の失敗や自分の未熟さを人のせいにしてしまうことは簡単です。しかし、そこには成長や発展はありません。聖書の中にも、責任転嫁の生き方をしていたために、キリストに叱責された人物が登場します。
エルサレムにベテスダの池があり、そこに多くの病人が集まっていました。実はその池には一つの伝説がありました。主の使いが時々この池に降りてきて水を動かすのですが、水が動かされた後で最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でも癒やされるといわれていたのです。
そこに38年もの間、病気にかかっている人がいました。キリストは彼に近づくと言われました。「よくなりたいか」。「はい、よくなりたいです」と素直に答えればよかったのですが、彼は答えました。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです」
彼がここでキリストに訴えたかったことはこうです。「主よ、ここにいる人は皆、自己中心の人間で、誰も私のことを助けてくれません。自分のことしか考えない人間の集まりです。私がいつまで経っても治らないのは、ここにいる人たちのせいなのです」
この男は、自分の病気が治らない原因を他人に押し付けたのです。キリストは、この男が単に肉体的に病気であるだけでなく、その心に大きな欠陥を持っていることを見抜かれて、彼に命じられました。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい」。これは、「自分の足でしっかり立ちなさい。自分の不幸を他人のせいにするのではない。自分の幸福感は自分で管理しなさい」という意味です。彼はキリストの叱責の意味を理解しました。すると、この男はすぐに治って床を取り上げて歩き出したのです。
今日も自分の不幸の原因を人のせいにしたり、環境のせいにしたりする人がいます。こういう人は、自分の幸福感の自己管理ができていない人です。絶えず他人の言葉や行動、環境や状況に影響されて、いつでも不安定なのです。
では、幸福感を自己管理するためには、どうすればよいのでしょうか。
(1)前向きに生きる
困難に直面したとき、後ろ向きに生きている人は、できない理由を一生懸命に探し、言い訳をしたり責任転嫁したりします。しかし、前向きに生きている人は、どうしたらできるかを一生懸命に追求します。
1995年度のミス・アメリカに選ばれた女性は、聴覚障害者です。彼女は多くの障害を乗り越えて栄冠を手にしました。彼女をいつも支えた聖書の言葉があります。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)
彼女は、困難に直面するたびに「私を強くしてくださる方、つまり、イエス・キリストの助けによって必ずできる」と信じてチャレンジしたのです。
(2)今を感謝して生きる
ある人は、いつも周りの人々と自分を比べて、自分に無いものに目を留めて失望したり、不平不満に陥ります。それは実に愚かな態度です。幸福感を味わいたいのなら、今自分に与えられているものに目を留め、感謝しながら生きることです。自分の家族・友人・仕事・年齢など、今あるがままを神からの賜物として受け入れ、「今が最高!」と告白して生きることです。
アメリカにボブ・ウィーランドという人物がいます。彼はベトナム戦争で地雷に触れて両足を失いました。彼はそれ以来、両腕のコブシで歩くようになりました。そして残った両腕に感謝しようということで、その証しとしてロサンゼルスから首都ワシントンまでの5千キロの道程を歩くことを決意し、熱砂と厳寒の中を3年8カ月と6日をかけて完歩しました。彼は、「私は障害者だとは思っていない。やろうと思ったことは何でもやれるよ。やろうと思うかどうかなんだ」と言って、今与えられている身体に感謝しているのです。
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