現在(2012年8月)、水沢図書館で「企画展・明治初期の胆江(たんこう※)地方のキリスト教について」が開催されています。私も早速行ってまいりました。
フランスから届いたイエス・キリストの御絵、ロシアから届いたイエス・キリストのイコン(画像)、ハリストス正教会の信者だった留守伊豫子の祈祷書や手紙、山崎為徳の『天地大原因論』のコピーなど、この地域のキリスト教の歴史を示す興味深い資料がたくさん展示されてありました。
これだけの資料をよく集められたものです。その日は館長さんに付き添っていただき、直々に解説を聞きながら資料を見ることができ、幸いなひと時を過ごすことができました。
展示されてあったたくさんの資料の中で特に私の心に留まったのは、「親族、切支丹人頭改」です。これは1836(天保7)年に水沢・袋町に居住する先祖がキリシタンであった類族52家族・265人について記録されてある帳簿のコピーです。
後藤寿庵の影響もあってキリシタンの数が非常に多かった胆江地区は、その後、厳しいキリシタン弾圧がなされた地域です。住民のすべてをお寺の帳面に登録させる「宗門改」、キリシタン発見を奨励するための「訴人褒賞制」、相互監視を徹底させるための「五人組連座制」など、幕府のキリシタン弾圧は実に徹底したものでした。
キリシタンが発見されたならば、その家系は5代にまでわたってキリシタン類族として厳しい監視下に置かれることになりました。その間にキリシタンが出なければ、ようやくその監視が解かれるというくらいの徹底ぶりだったのです。
展示されてあった資料からは当時、水沢の袋町だけで52家族・265人もの人々がお上の監視下に置かれていたことが分かります。胆江地区全体で一体どれだけの人々が監視されていたことでしょうか。そんな冷酷な社会状況が実に200年以上も続きました。この地域で、キリスト教に対する反感、嫌悪感が強かったとしても、それは当然のことなのです。
お上に対しては従順で、自己主張を慎み、大勢に従うという日本人の気質は、キリシタン弾圧の時代に形成されたという指摘があります。私たち多くにとって、自分が確信するものを貫くよりは、絶えず周りを気にして、大勢からはみ出ないことの方が楽だし、その方がこの世の処世術としては大事とされているのではないでしょうか。
地域の歴史を探ると、現在の自らの姿が見えてきます。その上で、自らのこれからの生き方を模索することができます。このような貴重な展示会が企画されたことをとてもうれしく思います。
※胆江・・・岩手県南部の胆沢・水沢・江刺を含む地域の名称
(『みずさわ便り』第88号・2012年8月5日より転載・一部編集)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)
◇
若井和生(わかい・かずお)
1968年、山形県生まれ。1992年より国立フィリピン大学アジアセンターに留学し、日比関係の歴史について調査する。現在、岩手県の水沢聖書バプテスト教会牧師。「3・11いわて教会ネットワーク」の一員として、被災地支援の働きを継続中。妻、8歳の息子と3人家族。