これまでの内容の中に、神を否定したい深層心理が多くの人に働いていると度々書かせていただきましたが、それが何なのかについて、今回は踏み込んでいきたいと思います。
こういうと、ある人々は「いや別に、神がいるなら殊更(ことさら)に否定したいなどとは思っていないよ」と言われるかもしれません。そうなのです、これは深層心理なので、私たち自身もはっきりとは気付いていない可能性があるのです。
では、神を否定したい深層心理とは何かと簡潔に言えば、「正しい神(GOD)の存在がどうにも窮屈だ」というものです。
かつて豊臣秀吉はキリスト教の宣教師たちにこう言ったそうです。「『わしが大勢の女たちを持つことを、バテレン(宣教師)が許してくれれば、わしは今すぐにでもキリシタンになるのだがな。デウス(神)の教えで守り難いのは、それだけじゃよ』『では私が許して差し上げますから、キリシタンにおなりください。殿下は戒律を破った罰で地獄に落ちられるでしょうが、殿下のまねをしてキリシタンになった大勢の人が、救われますから』。これを聞くと秀吉は、機嫌をそこねるどころか、大声で笑ったという」(Remnant「キリスト教読み物サイト」の高山右近より引用)
秀吉は無類の女好きでしたから、神が存在するのは理解できるとしても、その神によって自分の欲望が制約を受けるのは嫌だったのです。当時は権力者が多くの女性を自分のものとするのは普通のことでしたので、現代の物差しで秀吉をジャッジするべきではありませんが、この逸話は今回のテーマの核心をついているものなので引用させていただきました。
不道徳な生き方を愛することを聖書では罪と言いますが、神の存在を認めてしまうと、神は私たちの生活はおろか、心の中まで見通される方であり、善なることを奨励し、罪を裁く方だと教えられるものですから、窮屈でしょうがないのです。
気持ちは非常に理解できますね。私自身も幼いころから聖書に親しみ、神の存在を自明の事として信じていました。しかし大学生になるころには、自由気ままに羽目を外して好き勝手なことをしたくて仕方がありませんでした。それでできれば一人暮らしをして教会からも遠ざかりたいと思っていました。実際に、子どものころは神を信じていても、大学生になるころに、信仰の世界に背を向ける人は世界中に大勢います。
堕落論
坂口安吾の『堕落論』という本は、人間の「堕落」について非常に鋭い考察をしているのですが、彼の考察の一部を私なりの言葉でまとめるとこうなります。
人間は放っておくと、誰もかれも「堕落」していくものだ。ただし興味深いのは、その「堕落」も非常に厳しい戦時中は人々の中からなりを潜め、多くの義士たち貴婦人たちが国のため家族のために自己犠牲的な働きをした。しかし、戦争が終わり、自由が与えられると、かつての義士たちも貴婦人たちも再び陳腐な「堕落」の波に飲まれていった。これは、自由があるから人が堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるのだ・・・。
このように罪と堕落の性質を本来的に持っている私たち人類にとって、正しい神の存在は「校則」「校則」と融通の利かない学校の教頭先生のように窮屈に感じるのです。でも以前言及した通り、窮屈だろうがなんだろうが、人の気持ちや感情の問題によって何者かの存在の有無を論拠づけることはできません。でも人間は見たいものだけが見え、考えたいことだけを考えるものですから、こう思いたいという強い動機(感情)が働くと知性は目をつむってしまうのです。
理性と感情
自分の利害や感情と一致しない場合は、いかに客観的な証拠を目の前に突きつけられても人間が絶対に納得しないという例は枚挙にいとまがありません。最近では世界各地の隣国間の歴史認識問題や領土問題がその典型的なものでしょう。客観的に現存する全く同じ資料を両者の手に渡すことは難しくないでしょうが、その解釈において、「自国に有利に」という感情が自動的に働くので、両者が同じ結論に至ることができないのです。
それは神を知るという形而上学においても、端的に表れます。結果、デカルトのコギトアルゴスムをはじめとして、純粋理性批判、進化論、宗教戦争の弊害、不可知論、不完全性定理、宇宙人論、Something Greatなどなど、なんでも良いので、神を否定できる可能性がわずかでもあれば、それをあたかも確証されたもののごとく自らに言い聞かせて、無神論者になり、不道徳な生活や利己的な生活を選んでいくのです。
神の親心
しかし、もしあなたが親なら、自分の子どもにはこう教育するでしょう。「いいかい、良く聞くのだよ、いくら友達が自堕落に快楽を追求し、なるべく楽しく利己的に生きようぜと誘ってきても、絶対に誘いに乗ってはならないよ。むしろ勤勉で誠実に生き、苦境の中にいる人を助け、一人の人に出会って契りを結んだら、一生貞操を守って生きなくてはなりませんよ。そしてそれは窮屈なようであっても、あなたの本当の幸せなのですよ」
私たちの神(GOD)も、何も私たちを窮屈な生き方に押し込めようとしているのではないのです。私たちを愛しているからこそ、私たちが本当の幸せを選べるように「罪から離れなさい」と導いているのです。そしてそれは、後になってみると真の幸福につながっている道であることに気付くはずです。ちょうど親の心を、自分が親になってみて初めて気付くという事に似ていると思います。
罪人を招かれる神
そうは言っても、自分は正しい人間ではなく、どうしても自分の力では罪から離れられないから神のもとには来られないという、正直な悩みを抱えている方もいるかもしれません。
でも実は、私たちは正しい人間だから神のもとに来るのでなく、罪ある者だから神のもとに来て赦され、また愛される必要があるのです。キリストは、このように言われました。
「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』」(マルコの福音書2:17)
秀吉に接した宣教師たちが「殿下は戒律を破った罰で地獄に落ちられる」などと言わずに、「殿下、私も依然として罪を犯す者です。どうぞそのまま信仰の世界に入ってください。私たちが神の言葉と愛を理解するにつれ、自然と罪から離れるようになるでしょう!!」と言っていたらなと思われてなりません。
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(最終回)
◇
山崎純二(やまざき・じゅんじ)
1978年横浜生まれ。東洋大学経済学部卒業、カナタ韓国語学院中級修了、成均館大学語学堂(ソウル)上級修了、JTJ宣教神学校卒業、ブルーデーター(NY)修了、Nyack collage-ATS M.div(NY)休学中。韓国においては、エッセイコンテスト「ソウルの話」が入選し、イ・ミョンバク元大統領(当時ソウル市長)により表彰される。アメリカでは、クイーンズ栄光教会に伝道師として従事。その他、自身のブログや書籍、各種メディアを通して不動産関連情報、韓国語関連情報、キリスト教関連情報を提供。著作『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)、『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』(トライリンガル出版)他。本名、山崎順。