連載を振り返って
「神の存在証明」の連載をここ数カ月の間書かせていただきましたが、いかがでしたでしょうか。納得された箇所、納得できないと感じる箇所がそれぞれあったのではないでしょうか。今回が最後ですので、今まで16回の連載が、どのような構成になっていたかを振り返ってみたいと思います。まずは目次風にするとこうなります。
■ 序
1. はじめに
■ 第1章 神の存在証明
2. デカルトによる神の存在証明
3. ニュートンによる神の存在証明
4. インマヌエル・カントによる神の存在証明
5. 宇宙論的神の存在証明
6. 人類史上最大の深遠な問い
■ 第2章 神を信じない理由(神の代替的存在)
7. 多神教の起源
8. 人格のない宇宙エネルギー!?
9. 不可知論
10. 神の定義
11. 神の非存在証明!?
12. 生命の起源
13. 初期仏教と大乗仏教
■ 第3章 神を否定したい心情
14. 神を否定したい深層心理
15. 親離れ、神離れ
■ 第4章 神の愛
16. 究極の愛
■ 終章
17. おわりに
これを見ていただくと分かるのですが、神の存在証明自体は前半の方で終わっています。大切なことは難しいこととは限らず、むしろシンプルな場合も多いものですが、神の存在証明という一見難解な響きのある事柄も、ニュートンの例えなどで紹介させていただいた「目的論的存在証明」(世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を創ったからだ)と、因果律に従って世界が存在する原因の原因の原因・・・とさかのぼっていくと、最初には必ず第一原因なる方がいるはずだとする「宇宙論的証明」で、理性の領域においてはシンプルかつ十分に証明されています。この2つの証明を、きちんと正面から反論できる人はいません。
無理に神抜きで、世界と私たちの存在の目的と原因を説明しようとする「仮説・新説群」の結論には、常に「あるいは~なのかもしれない」「~が証明される日が来るかもしれない」という不確かな言葉がつきまといます。今後皆様がそれらの本の(例えば、「超ヒモ理論」や「マルチユニバース(多元宇宙)論」など)最後の部分をちょっと意識して読むと、そのことにすぐに気付かれるでしょう。
それとは対照的に、キリストについて書くことは、本来は本連載の枠を超えるものなのですが、聖書は実に明確にかつシンプルに、世界が存在する目的と原因がキリストすなわち神にあることを宣言しています。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです」(ヘブル2:10)
後半部分は、神の存在証明というよりは、神を信じられないと思っている理由・感情や固定概念に疑問符を投げ掛けることを目的として書かせていただきました。その中で、不可知論や「世界に戦争や悲劇が満ちているのは、神がいないからだ」などの、よく聞かれる意見にも自分なりの所見を述べさせていただきましたし、また「神(GOD)」に代替する可能性のある、宇宙人・人格のない宇宙エネルギー・進化論・多神教の神々・仏様(阿弥陀仏)などについても、皆様が考える際のヒントになればと思う要素を思いつくままに挙げさせていただきました。また最近耳にする、「神の非存在証明」的なロジックが、決して神が存在しないことを証明できているものではないことも主張させていただきました。
どうして神を否定する論拠に異を唱えさせていただいたかといえば、それらの多くが日本においてのみ殊更にうのみにされているような気がするからです。確かに神を信じる・信じないは各自の信仰の問題なので、信じる人・信じない人がいて当たり前なのですが、世界人口の半数近くが受け入れている「神の存在」を、荒唐無稽でばかばかしいことと99%もの日本人が当然のように考えているとするならば、私たちに施されている教育やメディア、論客陣の中に多大な偏重や固定概念があると考えるのが自然ではないでしょうか。それを少しでもよりフラットに戻すために、神を信じている側の考え方を紹介させていただきたかったのです。
また最後の方の14回・15回では、どうして少しでも神を否定できそうな理由があると、それが全然確かなものでなくても、人は神を否定してしまう傾向があるのかという点について、人間の理性の面ではなく感情の面に注目して書かせていただきました。この自己の深層心理に気付かないと、人は知らず知らずのうちに自らを欺き、自我の欲求や不安が正しい答えに至るのを妨げる結果をもたらすからです。
そして前回の16回では、神の究極的な愛について書かせていただきました。キリストの十字架について書くことは、先ほども言った通り本連載の枠を超えるものではありますが、神についての真の理解というのは、「神に圧倒的に愛されている」という実感・経験なしにはあり得ないことですので、今は神を信じていないという方々にもニュアンスを伝えられればと思って書かせていただきました。
親さがし・神さがし
さて、本当に最後になりました。あるいはあなたは十分に納得されて、神の存在に気付かれたかもしれません。または、神の存在を100%確信することはできないけれども、いる気がしてきたと言われるかもしれません。もしかしたら、うーんまあ多分いないと思っていたけど、まあ少しは可能性があるかもねという方もいるかもしれません。
「では」と私はトルストイやC・ヒルティと同じ提案をさせていただきたいと思います。わずかでも神が存在する可能性を認めるのであれば、探求する努力をしてみてくださいと。
なぜなら、神が存在するとすれば、その方はあなたにとって非常に重要な方に違いないからです。その方はまさにあなたの親のような存在であるはずです。私たちの親は確かに私たちを生んでくれましたが、その親ですら祖母と祖父から無垢の赤ちゃんとして生まれたのであって、自分がどこから来たのか、また死んだ後どこに行くのかを知りません。しかし神が私たちの造り主であるなら、彼は私たちが何のために生まれてきたのか、いかに生きるべきなのか、そして死後どうなるのかも全て知っているはずです。そして何よりその方は他の誰よりも私たち一人一人を愛し、気に掛けてくださっている魂の親のような方のはずなのです。
「母を訪ねて三千里」という物語がありました。幼いマルコ少年は自分の母親が遠いどこかの国にいるかもしれないという不確かな情報をもとに、必死に母親を捜し求め、三千里もの距離を旅しました。私たちも、それがどんなに不確かに思えたとしても、私たちの親のような大切な存在である神を捜そうと努めるべきではないでしょうか。そしてそれは数ルーブルのお金と、少しの時間を使うことによって、つまり聖書を読むことや信仰の先達たちの言葉に耳を傾けることによって始められるのです。
子どもと何らかの理由で離別してしまった親は、毎日毎日悲痛な思いで子どもの帰ってくるのを待つでしょうが、私たちの神もまたあなたに戻ってきてほしいと懇願していると聖書にあります。本来は、神を否定し、利己的な自我と孤独と虚しさを抱え、行き先を失っている私たちの方から神に懇願しなければならないはずであるのに、神はあなたを愛する故にあなたを待ち続け、あなたに「帰っておいで」と懇願し続けているというのです。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)
稚拙な文章に、最後までお付き合いいただき、本当に本当にありがとうございました。また皆様と交流できることを願って、筆を置かせていただきます。
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山崎純二(やまざき・じゅんじ)
1978年横浜生まれ。東洋大学経済学部卒業、カナタ韓国語学院中級修了、成均館大学語学堂(ソウル)上級修了、JTJ宣教神学校卒業、ブルーデーター(NY)修了、Nyack collage-ATS M.div(NY)休学中。韓国においては、エッセイコンテスト「ソウルの話」が入選し、イ・ミョンバク元大統領(当時ソウル市長)により表彰される。アメリカでは、クイーンズ栄光教会に伝道師として従事。その他、自身のブログや書籍、各種メディアを通して不動産関連情報、韓国語関連情報、キリスト教関連情報を提供。著作『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)、『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』(トライリンガル出版)他。本名、山崎順。