第1日目(現地時間:5月18日月曜日)
今回のイスラエル行き(2015年5月17~27日)は成田空港発。私は教会が成田にあり、東京などから来る方々は、渋滞や電車の運行状況を見なければなりませんが、私の場合、教会から車で10分ほどで成田空港に行けますので、その心配はありません。忘れ物を取りに帰れる距離です。今回のツアーは、エンパワード21エルサレム大会参加のためで、日本からは総勢55名ほどが参加し、関東からは16名が参加しました。
日本時間5月17日夜10時半出発のトルコ航空機に乗り、12時間半かけてトルコのイスタンブールに到着しました。空港内はまるでバザール。とても広いマーケットに来たような場所です。1時間半の待ち時間、少し高かったのですがアイスを味見(4ドル)。これは美味でした。ここイスタンブールからはアジア、アフリカ、ヨーロッパと、多くの場所にフライトがあり、ハブの役割を果たしています。そして少し小さな飛行機に乗り換え、さらに2時間半、都合15時間のフライトで無事、テルアビブのベン・グリオン国際空港に到着しました。シリア上空を飛べれば1時間くらいは短縮されるといわれているようですが、12時間以上のフライトはずいぶん前になるアメリカ旅行以来でしたので、少々疲れました。
年配の方々には、テルアビブというと1972年5月30日に起きた日本人極左過激派組織「日本赤軍」による乱射事件を思い出す人もいると思います。イスラエルの人々はそんな日本人にどういうイメージを持っているのか気になっていたのですが、ガイドさんの話では、あれは一部の過激派による犯行で、日本人に対する全体的イメージは悪くないということでした。もちろん、本国日本の命令に反し、リトアニアでユダヤ人難民に通過ビザを出した杉原千畝を多くのユダヤ人は知っており、日本人へのイメージ良化に寄与していることは間違いありません。今でも日本の政府や企業によって出資された病院や多くの施設があり、復興した町であるエリコには大きな農業施設が建てられていました。両国のよき交流を願います。
テルアビブはイスラエルの第2位の都市で、イスラエルの経済・文化の中心となっています。興味を引くのは、国連はテルアビブをイスラエルの首都としているのですが、イスラエルはエルサレムを首都だとしていることです。テルアビブは、旧約聖書に出てくる地名であることをご存じでしょうか。エゼキエル書3:15に出てきます。バビロニアに捕囚された民が住まわされた町の名でした。ヘブライ語でテルとは遺跡、廃墟、アビブとは穀物の耳、穀物の穂という意味だそうです。20世紀初めまでは、古代都市ヤッファに隣接する海沿いの砂丘でしたが、のちにシオニズムの代名詞ともなりました。テルアビブの正式名称はテルアビブ・ヤッファです。1948年5月14日、テルアビブにおいてイスラエルの国家樹立が宣言されました。この国家樹立宣言が第一次中東戦争の引き金となり、後々四次戦争にまで発展します。49年にイスラエルが西エルサレムを占領してエルサレムを首都としましたが、国際的には承認されておらず、いまだに多くの国の大使館はテルアビブにあるそうです。
イスラエルの入国審査には事前に書く書類がなく、パスポートにスタンプも押してくれません。その代わりにカードが発行されます。イスラエルのスタンプがあると、他国で入国拒否を受けることがあるからだと聞きました。また、多くの質問がなされ、厳しいチェックを受けました。問題なく無事通過、ほっとしました。
そこからはチャーターしていたマイクロバスで、空港から海岸沿いに1時間ほど車を走らせ、カルメル山のある39キロに伸びる丘陵地に入りました。眼下に地中海が広がる港町ハイファ。地中海を望むすばらしい景色の美しい街です。
歴史のある街ですが、近世19世紀にキリストの再臨を信じるドイツ人が入植して発電所や工場を建設しました。さらに20世紀に入るとユダヤ人の入植が進んで、建国のころにはアラブ人よりユダヤ人が多くなりました。英国委任統治領時代には、イラクやレバノンとの間に鉄道が敷かれ、イラクの原油がハイファの港へ至るパイプラインでつながり輸出されていたそうです。もちろん今はありません。しかしハイファは、一旦戦争が始まると真っ先に狙われる都市だともいわれています。それほど重要な都市となっているということでしょう。
イスラエルにはユダヤ、イスラム、キリスト教徒だけではなく、様々な宗教の人々が共存しています。ここハイファには、バハイ教の寺院があります。あまり知られてはいませんが、バハイ教の布教国数はキリスト教に次ぐ世界第2位だそうで、日本にも支部を持っています(信徒数は公称600万人、189カ国)。後で知ったのですが、私の知り合いにも、友達にバハイ教の子がいたという人がいました。バハイ教はイランに発祥を持ち、初期から布教を禁止され、トルコを経て、当時オスマン帝国の牢獄の町であったアッカへと追放され、今日イスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を持つようになったそうです。庭園のような美しいなだらかな坂に、その本部の寺院が立っています。その信仰は一神教で、アブラハムにさかのぼるといわれています。
さらに進むと、今度はイスラム教の一派ドゥルース族の街に着きます。11世紀に異端としてエジプトを追われ、シリアに住んでいたのですが、17世紀にイスラエル地方で起こったベドウィンの反乱鎮圧の功績でカルメルを与えられ、現在に至っているそうです。彼らはアラブ人から身を守るために山岳地帯に住み、ユダヤ人のシオニズム運動に好意を寄せ、新生イスラエルにも協力しました。彼らの教義は全く公にされてなく、ただ生まれ変わりを信じていて、義のために死ぬことを恐れず、イスラエルに忠誠心を持っているということでした。ドゥルース族はモーセの妻の父でミデアン人祭司エテロの子孫といわれています。ここイスラエルでは、みな聖書の世界とつながっていますね。
さらにカトリックの施設で昼食を済ませた後、エリヤの預言者学校があったとされる場所を訪ねました。今日も世界には多くの神学校がありますが、知識や学問、修養としての信仰ではなく、エリヤやエリシャのような、まっすぐと神様の御旨を聖霊によって語ることのできる神のしもべが養成されることを願わされました。私も教団の神学校で教鞭をとる身。身が引き締まる思いで祈りました。
エリヤの像の立つカルメル山の施設の庭で、皆さんと共に礼拝を持ちました。メッセージを担当した私は、エリヤがバアル、アシェラの預言者850人と戦った霊の戦い(Ⅰ列王記18章)を現代の私たちの戦いになぞらえて、「パリサイ人とヘロデのパン種に気を付けよう」(マルコ8:15)というメッセージをしました。
カルメル山の展望台からは、北手前にエリヤが850人のバアル預言者たちを殺したとされるキション川、左から地中海側にはアッカ。ヘブル語ではアッコ。旧約聖書には士師記1:31に出てくる古い街です。使徒21:7でパウロが第3次伝道旅行の際、カイザリヤに行く途中でここに寄っていることが分かります(トレマイという地名)。さらに遠くにナザレ。サウル王がペリシテ人との戦いの際に陣を構え、この戦いでイスラエルは敗北し、サウル、ヨナタンが戦死したギルボア山。ダビデはサウルがこの山で死んだために、この山を呪い、そのためか、今日もイスラエル政府による緑化政策にもかかわらず植物が育たないといわれているそうです。さらに南に目を向けるとエルサレム、そして最終決戦として黙示録に出てくるハルマゲドンの語源であるメゲドの丘などが見渡せます。カルメル山が霊的に重要な位置にあったことがよく分かります。
(文・妹尾光樹=純福音成田教会牧師)