第5日目(現地時間:5月22日金曜日)
今日は、エルサレムにあるクリスチャンたちによって運営されているいくつかの「祈りの家」を巡回します(祈りの家の運動については前回を参照ください)。現在、エルサレムには祈りの家が10カ所ほどあり、それぞれが神様に導かれ、ここエルサレムに祈りの家の働きを建てあげています。正直この働きは、神様の御旨にあることでしょうが、現実問題として大変難しいミッションです。なぜなら、エルサレムはユダヤ教やイスラム教の人々によって占められており、ここではキリスト教は少数派です。特に町の不動産を所有しているのは、このような現地の人々ですから、そこにキリスト教の祈りの家を建てるとなると容易に場所を提供したり、売ったりはしないのです。むしろそうしようとするなら、反対や妨害があるのが当たり前です。今週(7月第2週)も、イスラム国により、エルサレムに住むクリスチャンを殺害するというビラが配られたと聞きます(エルサレム在住の宣教師からの確かな情報)。昨日のトム・ヘス師の働きもそうですが、このようなことができるのは、神様の奇跡としか言いようがありません。その奇跡の過程や祝福を見るに、ただただ彼らの働きのために祈りたい思いに駆られました。
今日、まず伺ったのは、アメリカ人ジョン&ウナ夫妻が運営する「ダビデの町の祈りの家」です。この場所は裏口から今も発掘中とされるダビデの町が開けており、夫妻は、そのダビデの幕屋があったとされる場所に祈りの家を持ち、世界中から多くのクリスチャンが祈りに来ています。この日も、オーストラリア、中国、韓国、シンガポール、日本と多彩な国籍の30名が集い祈っていました。ジョン師の導きで、日本、韓国、中国の和解の時が持たれ、3カ国の兄姉が涙の中で共に手を携えて主の宣教のために、お箸文化同士、キリストのために立ち上がろうと誓い合いました。ジョン師からは、日本の教会への預言的励ましを頂きました。日本の教会は、多くの苦しみを経てきたが、今こそ立ち上がる時が来た! 大胆に出て行こうというものでした。これは日本の、メーンラインにも、福音派にも、聖霊派にも必要な励ましと私はとらえました。私も最後に、韓国の祝福のために、韓国語で祈らせていただきました。最後にイギリスから来た姉妹が、私が大きく用いられるようにと特別に祝福し祈ってくださいました。
祈りの後、ダビデの町をジョン師直々に案内していただくという恵みに預かりました。ダビデの幕屋や宮が建っていたと思われる場所。いまだにすべての発掘が済んだわけではありませんが、徐々にその当時の様子が明らかにされてきています。すでに住居が建っている場所であり、立ち退きは無理なので時間のかかる発掘のようです。
ダビデの町の南側から急な石段を下ると、三つの谷が交わる場所に出ます。ダビデの町は、ヒノムの谷、キデロンの谷、チロペオンの谷(エルサレム旧市街を通る)の三つの谷に囲まれる丘にあります。その谷の形は親指、人差し指、中指の3本を立てたような形になり、上空から見るとWに似た形です。その字はヘブル語では、神の御言葉を意味する形だと聞きました。今はその向こう側の斜面にも多くの家々が建ち、当時の様子を思い図るのが難しくはありますが、ここはダビデの町から見ると正に谷底にあります。
エルサレムには糞門(ダン門)という門がありましたが、それはエルサレムの中から出てきたゴミがその門から運び出され、そう呼ばれました。そしてゴミはヒノムのこの谷で焼かれていたようです。このヒノムの谷、つまりヘブル語で「ゲイヒンノム」からゲヘナという、地獄と訳される言葉が生まれました。ゲヘナとはゴミ捨て場、焼却場の意味だということです。天国でいらなくなったゴミを捨てる場所だといえます。当時の人々は、ゴミが消えることのない火として焼かれる様子を地獄のようだと見たのでしょう。
この場所は旧約聖書(Ⅱ列王記23:10など)によると、かつては幼児犠牲がささげられたモレク礼拝の場所であったといいます。モレクとは、ヘブル語の王のメレクということばに、恥ずべきもの、ボーシェスの母音をつけて発音させたもので、偶像の総称であり、恥ずべき王という意味だと言われます。その言葉が物語っているのは、これを最初にこの場所に設けたのがソロモン王であり(Ⅰ列王記11:8)、ユダの王アハズによって行われ(Ⅱ列王記16:3)、その後はマナセ王も父ヒゼキヤ王が取り壊した高き所を築き直してヒノムの谷でこの悪習慣を繰り返した(Ⅱ列王記21:6)ことが聖書に記されています。歴代の王に他の偶像礼拝と共に受け継がれ、南王国16代ユダの王ヨシヤの宗教改革で排除されるまで続けられたといいます。伝承では、当時ユダの王であったヨシヤ王の宗教改革によって、その場がゴミ捨て場とされたとされているそうです。
当時ゴミというと、今日のようなプラスチックや不燃物とは違い、ほとんどが生ごみであったと思われます。そこでイエス様がゲヘナについておっしゃったこの御言葉が思い浮かびました。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」(マルコ9:48)。まさにいつも生ごみが積まれ、うじがわき、そして火がくすぶり続けていたヒノムの谷。イエス様はそこをご覧になり、ゲヘナについて話されたと思われます。自称クリスチャンと名乗るある異端のグループは、イエス様は愛の方だから地獄はないと言っているようです。しかし新約聖書には12回「ゲヘナ」の文字が出てきますが、そのうち11回はイエス様が語っておられるのです(残り1回はヤコブ書)。つまり、地獄を一番たくさん教えてくださったのがイエス様なのです。そこでイスカリオテのユダが首を吊ったともいわれているそうです(確証はありません)。
今、このダビデの町にはユダヤ人が多く帰ってきており、不動産も買い取ってメシヤの到来を準備しているようです。
この先には、シロアムの池があります。ヨハネ9章に出てくる、イエス様が盲人の目を開けた現場となった場所です。ここも、この10年で新たに発掘された部分がたくさんある場所です。ここには南ユダ王国4大善王の一人ヒゼキヤ王が、アッシリアの攻撃に備え、ギホンの泉から突貫工事で掘ったとされる水路(Ⅱ歴代誌32:30)があり、今も新鮮な水が流れています(ヒゼキヤトンネル)。しかしいまだその全容は発掘されておらず、私が資料として持っていた写真(おそらく10年以上前)と比べてみても、ずいぶん姿が違っていました。やはりイスラエルには何年かに一度は来ないといけないなと思いました。
実は、このツアーに出発するやいなや、義母の体調が急変していました。危篤となれば急きょ帰国も考えていました。その時、ジョンさんが突然ペットボトルに入れていたシロアムの池の水を私たちに振りかけ始めました。私たちはびっくりしましたが、同時に義母に代わり、癒やしを信じ、この池の水を全身に浴びることで、義母が癒やされた! という信仰が与えられました。その夜妻からラインで連絡があり、義母の容体が安定したということでした。癒やしの神様を褒めたたえました。不思議なシロアムの体験をさせていただきました。
その後は徒歩でシオンの門まで上りました。結構なアップダウンですが、当時の人の健脚がしのばれます。イエス様もエルサレムにおられた時には、昼には城内で神の国を伝え、夕方からはオリーブ山に潜まれて祈り休んでおられたようですが、この間の道のりはとても厳しいもので、やわな現代人にはきついものとなっています。それから私たちはシオン門に着き、門の前で「さあ皆で主の山に登ろう」を賛美、持参した宿泊ホテル特製のランチを頂きました。
そして、最後の晩餐が行われたといわれる場所に行き、マタイ26章を朗読し、共にイエス様の苦難を覚えて祈りました。ここはその造りから十字軍時代の建物だと思われます。そしてイスラム支配の痕跡が残っています。古い伝承から、ここがその場所だと考えられているようです。ここでイエス様はご自身の受ける苦難を語り、裏切るユダを宣告し、いよいよご自身がこの地に来られた十字架で死ぬ目的を遂行するため、祈りをもって準備をするために、ローマ兵に逮捕されるゲッセマネの園に向かいます。イエス様の心の苦悩はいかほどであったでしょうか。想像もできません。
さらにその階下にあるダビデの墓(最後の晩餐の部屋は2階)があるといわれる場所を訪れました。ここはユダヤ民族の誇り、王ダビデが眠る場所とされ、ユダヤ人たちの神聖な場所となっています。入り口は男女が区別されています。ユダヤでは3歳から男女を分けるといいます(日本では「男女7歳にして席を同じゅうせず」でしたが)。ユダヤ人が熱心に祈っている場所で、彼らがメシヤであるイエシュアを知るために、キッパをかぶって共に祈りました。
エンパワード21は3日目を迎えました。本日のメーンであったベツレヘムでの伝道集会は、急きょ知事の通達によって中止になったということです。ベツレヘムは、パレスチナ自治区。昨日もパスポートを持っていくようにと話があったばかりでした。どうやら、大きなトラブルを心配した当局が、開催直前になって中止を決定したようです。多くの脅迫電話が市長にかかってきたといううわさもあります。事実は分かりませんが、遠からずでしょう。そういうわけで、午後3時から特別集会が開かれました。メッセンジャーは、ダニエル・コレンダ(Daniel Kolenda)師。知っている限り、先祖は皆牧師、夫人方もそうだそうです。
(文・妹尾光樹=純福音成田教会牧師)