第7日目その2(現地時間:5月24日主日)
第8留 「私のために泣くな、自分の子のために泣け」とイエス様が語られたとされる場所(ルカ23:27~29)
ここでイエス様が女たちに語り掛けられたとされる場所です。ここにはギリシャ正教の教会があります。この教会の壁には、ご覧の写真の真ん中にあるように、小さな十字架を刻んだ石がはめ込んであり、そこにはギリシャ語で「勝利者イエス・キリスト」という文字が刻まれています。この十字架は、ラテン十字と呼ばれる形状です。第7留で語った「法廷の門」を背後にしていることから、この場所は、イエス様の時代には城外にあったと考えられています。つまりルカ23章にある話は、城外の野原で起こったことだと思われます。
第9留 イエス様の三度の躓きの三番目があったとされる場所です(詩編40:8)
第8留の市場をさらに南に向かうと右に、西に向かう階段がありますが(ちょっと分かりづらく迷いました)、それを上るとコプト正教の教会(聖アンソニー教会)があり、その中庭に第9留があります。昔は聖墳墓教会の中にありましたが、そのしるしとなっていた、イエス様の十字架が落下したとされる石が紛失してしまい、その後16世紀からは今の場所に移ったそうです。ここから聖墳墓教会の屋根裏に入る通路があるようです。
その途中には、エチオピア正教会(デイル・アル教会)があります。とにかくこのあたりは複雑です。先日(2015年初頭)イスラム国に捕らえられ、21人の殉教者を出したコプト正教会ですが、その虐殺現場の写真が載った横断幕が掲げられていました。私たちはここの教会で礼拝しました。
第10留 イエス様の服が脱がされたとされる場所に立つ聖墳墓教会(マタイ27:35、36、イザヤ1:6)
ここからは、聖墳墓教会の中にあります。ただ第10留だけは、建物の外側に独立した形で聖堂があります。十字軍時代には、この外階段から直接ゴルゴダの丘まで行けたといいますが、12世紀にイスラム教徒によって通路がふさがれ、窓が作られ、直接は行けなくなったようです。
ここ聖墳墓教会が伝統的におそらくですが、十字架のあった場所であろうと言われています。後で行くアラブ人地区にある、イギリス人が管理する主の園といわれるゴルゴダですが、今は位置的にもこの墳墓教会が有力だと言われています。昔コンスタンチヌス帝の母ヘレナがここを十字架の場所として教会を建てたのですが、多くの教派がその所有を主張したため、六つの派(ローマ・カトリック、ギリシャ正教、シリヤ聖教、アルメニヤ正教、エチオピア正教、エジプト正教)に共同管理させることになったということだそうです。しかも、そうこうして仲たがいしているうちに、教会の開け閉めは、前世紀からイスラムの家族が受け持つようになったということです。その象徴として、外壁面にも中にもはしごがかけてあります。そのはしごは、この六つの教派が同意しないと小さなもの一つも動かせない象徴となっています。入り口の柱は、巡礼者によって触られ、口づけされ、このように変色しています。
第11留 イエス様が十字架にくぎ打たれたとされる場所(ヨハネ19:17、詩編22:17、18、ルカ23:33、34)
正面玄関入り口を入り、すぐ右にある階段を上ると、そこがゴルゴダの丘であった場所だといいます。確証はありません。その真実は、この教会の建物の下にあるのだと思いますが、現状では発掘調査は困難な状況です。
聖墳墓教会は、ローマ皇帝コンスタンチヌスの母ヘレナによって建てられたと言われています。彼女はイエス様が十字架についたゴルゴダがどこにあったのかを特定する目的もありエルサレムを訪れます。そして今のその場所をゴルゴダと断定し、ここに教会を建てました。その後荒波のような歴史の中で、幾度となく破壊と再建が繰り返され、今の聖墳墓教会ができたのは、1810年であったとされます。先にも述べたように六つの派が管理している教会ですので、中はとても複雑で、それぞれに特徴的な祭壇が築かれています。
第12留 イエス様が十字架上で息を引きとったとされる場所(マタイ27:45~54)
ゴルゴダの丘の右側に設置されています。ここはギリシャ正教の管理になります。ここの床には十字架が建てられていたとされるくぼみがあります。もちろん伝承です。
第13留 イエス様が十字架から降ろされたとされる場所(マタイ27:59)
ここには、フランシスコ会が管理する「スターバト・マーテル」という岩があります。十字架から降ろされたイエス様の遺体が寝かせられたとされています。
第14留 イエス様が墓に葬られたとされる場所(マルコ16:6)
この本来の聖堂のところに、第二聖殿(捕囚の民が帰還し建てあげた)の城壁の一部が発見されたということでした。この発見で、墓が城壁の外にあったというエルサレムの常識は証明され、ここがゴルゴダであったという証拠にもつながりました(ヘブル13:12)。
しかし、これらの薄暗い建物、香がたかれ、いぶされたような匂い、そして多くの人々。また様々なもので装飾された置物やイコン(聖画)は、私たちの信仰とは少しかけ離れたところにあるように思えます。
ご指名を頂き、この中で皆さんと礼拝を持ち、メッセージをしました。(以下メッセージ要約)
「イエス様が十字架につく直前、べタニヤにとどまられたイエス様にマリヤが非常に高価な(当時の価値として1グラムが1万円ほどであったか)、純粋なナルドの香油300グラムをとってイエス様の頭に注ぎ、足に塗ります(マルコ14:3、ヨハネ12:3)。その香りがその後、エルサレムに入られたイエス様に香り続けます。最後の晩餐の場所に、そしてオリーブ山の祈りの場所に、そしてピラト、カヤパの裁判の場所に、そしてドロローサの道に、十字架に、葬られた墓にまで、その香りは漂っていました。これは私の想像ですが、おそらく、復活されたイエス様のお体からも、マリヤのささげたナルドの香油は香り立っていたと思います。同じように、私たちのささげるすべての信仰の行い、祈り、献身を、イエス様はいつも覚えてくださる。これが私たちの信仰です」
これらの出来事はみなエルサレムの城外で起こった出来事でした。エルサレム旧市街は、現在高い城壁に囲まれていますが、これは16世紀に建てられたものであって、イエス様の時代とは違います。イエス様の時代はずっと今より小さな市街でした。神殿の丘を中心に城壁がありましたが、そこには10の門があったと言われています。羊の門、魚の門、古い門、エフライムの門、谷の門、糞の門、泉の門、水の門、馬の門、東の門、裁きの門です。しかし現在あるエルサレムの旧市街を囲む16世紀に建てられたこの高い城壁には、現在八つの門があります。
東側には① ライオン門(ステファノ門、羊の門とも呼ばれる)。中世ここを支配していた王が夢枕に立ったライオンに、門の修復をしなければ食い殺すと言われたとしてこの門を修復、さらにその門にライオンをあしらったことからその名前がつけられたとされます。ここでステファノ執事が殉教したとされ、ステファノ門とも呼ばれます。また、城内にいけにえとして運び込まれた羊を通す門であったことから、羊の門ともされたといいます。聖書にも聖殿の門として出てくる門です。
北には② ヘロデ門(ヘロデの邸宅があったと言われる)があります。今回私たちはここを一番通過しました。ここから徒歩で10分くらいのところにホテルがありました。この前の道を挟んだ向かい側はマーケットになっています。果物やお菓子、シャツなどを買ってみました。
③ ダマスカス門(ダマスコに行く道がある)。ここは旧市街にあるアラブ人のマーケットを抜けるとある門で、ここも数回通りました。門の中も外も他の門では見られないほどの露店がたくさん出て広がっています。物売りの声が響いています。
④ 新門。19世紀に当時統治していたイギリスによって新しくできた大きな門で、車も入れるようになっています。
西には⑤ ヤッフォ門(ジャファ門、ヤッフォに行く道があった)。
南には⑥ シオン門(シオンに至る門)。ここはオリーブ山から下りて上ってくることもでき、私たちはここで2回食事をしました。
⑦ 黄金門。唯一現在閉じられている門。ここからメシヤがエルサレムに入ることを恐れた当時の支配者だったオスマントルコの王が、この門をふさいだと言われています。しかし実際は、7世紀にこの地を治めていたムスリムが、彼らにとっての第三の聖地となるエルサレムを守るために、直接神殿につながるこの門を閉じたのだといいます。その外側は墓が斜面にぎっしりあります。これもメシヤが群衆を連れて入ってこられないためだといいますが、メシヤなるキリストが再び来られるとき、多くの軍勢を引き連れてきますが、もしかしたら、この墓に眠る聖徒がよみがえり、共に来るということかもしれません。まさにそれを象徴しているかのようです(エゼキエル44:1)。
⑧ 糞門。ここから神殿の丘に入っていきます。嘆きの壁に一番近い門になります。バビロン捕囚からエルサレムに帰還したネヘミヤの指導のもとに再建された城壁にあった門の一つです(ネヘミヤ2:13)。城壁の南東部の角に位置し、ごみ、廃棄物、糞の処理に使用され、ヒノムの谷にも通じていました。シオンの丘のところでも書きましたが、旧約聖書にはこのヒノムの谷(ネヘミヤ11:30)やベン・ヒノムの谷(ヨシュア15:8)が出てきますが、ここからゲヘナ(地獄)という言葉が出たということです。ヒノムの谷はエルサレムの南西を巡っている谷で、現在アラビヤ人が、ワディ・エル・ラバビと呼んでいる谷です。この谷の中で、モレクとタンムズの礼拝が行われたと聖書にはあります(Ⅱ列王記23:10、Ⅱ歴代誌28:3、33:6,エレミヤ7:31、32:35)。そこで幼児を犠牲としてささげる恐ろしい儀式が行われていました。ですので、ヒノムの谷はイスラエルでは、罪と恐怖の代名詞となっていました。宗教改革を行った南王国ユダの王ヨシヤは、この儀式を禁止するために、わざとこの谷を汚したとされます(Ⅱ列王記23:6、10)。その後ここは町の廃棄物、動物および罪人の死体の焼却場に当てられました。こうしたところから、自然にゲヘナは地獄の同意語として使用されるに至ったということです(マタイ5:29、30、10:28、マルコ9:43~47)。また火の池(黙示録19:20)とも同意語です。
ちなみに、下の白黒写真は、イスラエルが独立した当時(1948年)の糞門の様子。今とはずいぶん違っていますよね。
聖書に出てくる門の話は以下にあります。
① エゼキエル48:31~ 12部族の名が書き記された門。
② 黙示録21:12、21 12の門、12の真珠。それぞれ一つの真珠からできていた。12の使徒と長老の名。
(文・妹尾光樹=純福音成田教会牧師)