人類史上最大の深遠な問い
前回言及した、「人類史上最大の深遠な問い」とは何でしょうか。それは、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いです。英語では、このようになっています。
“Why there is something rather than nothing?”
私は個人的にこの“rather”という単語が好きなのですが、「むしろ」と訳される単語です。これを入れて訳すとこうなります。
なぜ「むしろ」何もないのではなく、何かがあるのか?
どうしてこれが人類史上最大の深遠な「問い」であるか分かるでしょうか。読み進める前に画面から目を離し、しばし考えてみて下さい。
それはこういう事です。今現在、この世界には様々な物が存在しています。太陽や月や星々のような大きなものから、微小な原子やら電子、ありとあらゆる動植物、鉱石、そして私たち人間に至るまで様々なものが存在しています。
その事に関して古くから多くの人が、「なぜむしろ無ではなく、何かが存在しているのだろうか?」と鋭く問うたのです。なぜなら、冷静に考察してみると、複雑な構造の物体が存在しているよりも、何も存在しないほうがはるかに簡単で起こりやすく自然で容易な事に思えるからです。
ある人たちは、それはビックバンによるのだと答えるかもしれませんが、そもそもビックバン理論というのは、その名の通り一つの理論(仮説)であって証明されたものではありませんし、たとえビックバンが起こったのだと仮定しても、「なぜビックバンがなかったのではなく、むしろビックバンがあったのか」と無限後退するだけで、最終的な回答にはなりません。
多くの方は、「考えたこともなかった」「考えるだけ無駄」「意味が分からない」などと笑って答えるかも知れませんが、この議論に名を連ねた方々は、錚々(そうそう)たる知の巨人たちです。そのうち何人かを紹介させていただきます。
ライプニッツ
彼はあらゆる側面において最上級の性質を持つ神の存在を仮定しました。そして、その神は「存在」するという点においても最上級の性質を持つのであるから、他に依存したり、因ったりせずに、自ら永遠に存在するとし、その神が他の全てを存在せしめたとしました。これは以前紹介したデカルトによる神の存在証明と同系列の「本体論的証明」と呼ばれるものです。
カント
これに対しカントは、前回も紹介した通り、この種の「問い」は、理性で扱えるものではないとしました。
ベルクソン
この人は非常にユニークな回答を提示したのですが、それは私の言葉で説明すると、こういうものです。
「ない(nothing)」という概念は、未来を予測できる人類が「ある」と予期していた時に感じるフィーリングである。例えば部屋の中に家具などがあると想定していたのに、部屋が空っぽだと「何もない」と感じる。しかし実際には空気もあり、埃もあり、畳や襖などもあるのである。だからこの世界には「無」という言葉はあっても、実際に無ということはないのである。
言葉を変えると、何もない状態の方が容易で起こりやすい事だという前提自体が誤りで、何かが存在しているほうが自然であり容易なのだというわけです。彼の回答が先の問いに充分に答えているかどうかは各自判断していただければ良いかと思いますが、彼のように自分なりの回答を追究する姿勢自体は見習うべきものがあると思います。
ハイデッガー
近代になると、この究極の問いに答えることは不可能であり、意味のない問いであるとし、問うこと自体が忌避(きひ)されるようになっていました。そんな頃、20世紀において最も重要な哲学者の一人とされる、ドイツのマルティン・ハイデッガーが登場します。
彼は、たとい答えることが容易でないとしても、この問題に取り組むことは、全ての知識人に奨励されるべきものであり、人類にとって最も重要な問いであることは間違いないとしました。結果、この「問い」が再び表舞台に出てくることになります。
その他の哲学者
ショーペンハウアーは、諸物に関しては「なぜ」存在するのかと問うことはできても、世界そのものに関しては「なぜ」とは問えないとし、ウィトゲンシュタインも語りえないものだとして、ハイデッガーを批判しました。ところがしばらくすると、アメリカのノージックが「答えられないだろうが、挑戦する」との趣意の論文を書き、さらにもう一度、この「問い」が注目を集めることになります。
この「問い」は、多くの人が全力で取り組んではあきらめ、その結果、問うこと自体を批判し、またしばらくすると「重要な問いだ」と再提起されることの繰り返しのようです。この「問い」がどうしてこれほど注目を集めるかと言えば、この「なぜ」が仮想の問いではなく、必ずそれには何らかの(人類の理解の範疇にあるかどうかにかかわらず)現実的な答えがあるはずだからです。
今すぐには、神の存在を受け入れられないという方々も、この「問い」のことを覚えておいていただきたいと思います。この問いに真摯に向き合うことのできる人は、前回までに紹介させていただいた「神の存在証明」にも真摯に向き合うことになると思うからです。
次回は、日本でもお馴染みの多神教の起源について、皆様と一緒に考察していきたいと思います。
※Wikipedia「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」一部引用・参照
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山崎純二(やまざき・じゅんじ)
1978年横浜生まれ。東洋大学経済学部卒業、カナタ韓国語学院中級修了、成均館大学語学堂(ソウル)上級修了、JTJ宣教神学校卒業、ブルーデーター(NY)修了、Nyack collage-ATS M.div(NY)休学中。韓国においては、エッセイコンテスト「ソウルの話」が入選し、イ・ミョンバク元大統領(当時ソウル市長)により表彰される。アメリカでは、クイーンズ栄光教会に伝道師として従事。その他、自身のブログや書籍、各種メディアを通して不動産関連情報、韓国語関連情報、キリスト教関連情報を提供。著作『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)、『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』(トライリンガル出版)他。本名、山崎順。