前回は、私たちが罪や堕落の性質を本質的に持っているゆえに、正しい神を否定したい深層心理が私たちの内に働くと書かせていただきましたが、神を否定してしまう人の性(さが)を別の言葉で言うと、「自我の萌芽のゆえ」となります。つまり、私たちの自我が芽生えるゆえに、親や神を否定するという側面があるのです。
自我の萌芽
聖書によると、最初の人類が神に罪を犯す際に、最大の誘惑の言葉になったのが、「(善悪の知識の木の実を食べると)神のようになることができる」というものでした。神に造られ、一方的な神の加護を受け、何の心配も不自由もなく、その権威の下に服していた人類が、その状況から脱し、自らが何人(なんぴと)にも依存しない独立した「自存者」すなわち神と同等の者となることが、人類の潜在的欲求だったというのです。このことを鹿嶋春平太氏は「自己神欲」(※1)と表現され、宮村武夫氏は「人神(神とならんとする人)」(※2)と表現されました。通常人はそこまで意識していないでしょうが、人間以上の存在(神)を否定することは結果的に人(自己)を万物の最高位の存在に据えることになります。人が自らを全ての生命の首長という意味の「霊長類」に分類したのも、同じ文脈として考えられます。
このような欲求は、子どもたちの反抗期と非常に酷似していると私は以前から感じていました。このことは他の方々にも指摘されています。『神コンプレックス』という本の著者であるホルスト・E・リヒター氏(※3)は端的に、「親がしたというそれだけの理由で、子どもたちは無条件にそれを否定し、『自我』を確立しようとやっきになる。そして人々の神に対する態度も同様だ」との趣旨のことを語っています。
では、神を否定し自由な意思を持ち独立した「自我」を確立することが、人類にとって幸福に繋がったかといえば、必ずしもそうとはいえませんでした。
肥大化する自我
『悩む力』というベストセラーを書かれた姜尚中氏(※4)は、誰もかれもが自由な自我を確立した結果、同時に不安と孤独をも抱え込むことになるという問題を、「肥大化する自我」という言葉を使って語り、現代人の最大の悩みのテーマとして取り上げています。
そして、そのことと関連して「自由からの逃走」というエーリッヒ・フロム(※5)の言葉を引用しているのですが、フロムによると人は自由な「自我」を与えられた結果としての、不安・孤独・責務に耐えられず、その「自由」から逃走し、再び何者かの権威の下に服することを欲するようになる。その人々の深層ニーズに答えたのが、ナチスだったというのです。
この「肥大化する自我」の問題は現代人共通のテーマですので、姜尚中氏だけでなく他の思索家たちも同様のテーマを扱っています。例えば、『バカの壁』などの著作で有名な養老孟司氏は最近『自分の壁』(※6)という本を出されています。その本の帯には「『自分探し』なんてムダなこと」というギクっとする言葉が投げかけられており、「自我」に執着することに対して警鐘を鳴らしています。
この「自我」の問題に気付いているのは、作家たちばかりではありません。『エヴァンゲリオン』という空前の人気を博したアニメはどうでしょうか。作品中に、「人類補完計画」という言葉が幾度となく出てきます。この計画の意味を私なりに解釈するとこうなります。
「人は隣にいる友人や家族とでさえ、心の底から分かり合えず、近づくと互いに傷つけ合ってしまうハリネズミのような孤独な『自我』を持った存在だ。であるならば、全人類の心を一つの海のように溶かし混ぜ合い、個をなくし、一つにすることができれば、人類を虚無や孤独の恐怖から解放できる。これこそが、人類の悲願なのだ」。ここでも同様に、肥大化した自我の問題をいかに解決するのかというのがテーマになっています。
そしてこの「肥大化する自我」の問題は、何か観念的な問題ではなく、実際に孤独や虚しさ、不安、うつ、自傷行為、自殺願望などの形で現れたり、その反対に自己顕示欲や過度の物欲、名誉欲、権力欲などとして発露したりします。この傾向は、敏感な心の人ほど強くなります。
対処法
これに対して人々は知らず知らずのうちに、その問題の深刻さを紛らわして生活しています。また、それに気付いた識者たちの解決策はこのようなものであります。
刹那的な逃避
フロムによると、「このような個人の孤独と無力の感情を、一般の普通人は全く意識していない。いやそのことがあまりにも恐ろしすぎるために、毎日の型のような活動、個人的または社会的な関係において見いだす確信と賞賛、事業における成功、あらゆる種類の気ばらし、『たのしみ』『つきあい』『遊覧』などによって、覆い隠し、考えないようにしている」とのことです。(Amazon『悩む力』MacManさんの書評より一部引用)
このことは、近年のお笑いブームやバラエティー番組、漫画、趣味、娯楽、仕事などに没頭している多くのわれわれ日本人にも言えることかと思います。
相互承認
先ほど例に出させていただいた姜尚中氏によると、「相互承認」をし、互いの存在意義を承認し合うことこそが、「自我」の虚無性や孤独に打ち勝つ道だとしています。「絆」という言葉が大切だと多くの人が感じるのも、このことと関連しているでしょうし、現代的にはツイッターやフェイスブックでの「繋がり」を人々が求めるのも、その一例といえるでしょう。バーチャルなつながりは、その稀薄性も指摘されていますが。
花鳥風月
養老孟司氏の言葉で、個人的に教えられたなと思ったのは、「花鳥風月」との関係です。もちろん、姜尚中氏が相互承認と言ったように、人との関係というのはとても重要なものですが、氏によるとそれでは「片手落ち」だというのです。肥大化した自我同士の交流が時としてストレスとなるわれわれにとって、「花鳥風月」つまり自然との交流こそが、孤独な自我に春風(はるかぜ)のような新風を吹き込むことになるのです。
無我
無我については前々回に少し触れさせていただきましたが、仏教においてはそもそも「自我」という実在はないので、その「自我」に汲々(きゅうきゅう)とする必要はないと教えます。同様のことを養老孟司氏は「自分とは地図の中の矢印である」という表現で語っています。矢印自体には、面積がなく位置情報だけがあるように、「自我」に実態はなく関係性だけがあるという意味です。同じく前々回紹介させていただいた呉智英氏によると、ロウソクの炎は一瞬前の炎とも1時間後の炎とも全く別の存在であるが、同じ連続性を持った「現象」であるのとちょうど同じように、「自我」もまた実態のある実存ではなく、連続する「現象」であるとしています。
生物学的見解
ロウソクの例えを生物学的に説明する人たちはこのように説明します。「現在私たちを構成している細胞は、全て10年前には存在していなかったし、今の細胞は10年後には全て新しい細胞に入れ替わっている、つまり生涯を通して一貫した『私』というのはそもそも存在しないのだ」。また以前紹介した無神論者のドーキンス氏は、私たち人類は利己的なDNAが自分の遺伝子の複製を残すための「乗り物」に過ぎないと言っています(※7)。つまり遺伝子(DNA)こそが主体であり、私たちという自我が生命の主体ではないと主張しているのです。
団体戦
自我を肥大化させずに、滅却させ、むしろ自己犠牲の精神すら芽生えさせる策として、先ほど紹介した鹿嶋春平太氏はスポーツの団体(チーム)戦などを例に挙げています。団体戦においては、各自は自己の活躍よりも時に自己を犠牲にして「チームに貢献」することが美徳とされ、選手も応援する観客も共に一つの目的のために泣き喜ぶことができます。結果、自らを特別な「自我」として肥大化させたり、あまつさえ「神」の位置に昇ろうとしたりする欲求、その結果としての「孤独」や「虚無」から解放されるというのです。このことはアイロニー的ではありますが、戦時中には人々が「堕落」とは無縁な「自己犠牲的な義士・貴婦人」であったとする坂口安吾氏の報告や、人々が自由から逃走するためにナチスに傾倒していったとするフロム氏の洞察とも通じるものがあります。もちろん、戦争よりもスポーツの方が健全であろうことは言うまでもありません。
一番優れた道
『悩む力』の書評において、MacManさんが的確に引用しているフロムの言葉が、他の解決策よりも卓越していると思われますので、一部を省略して引用させていただきます。
「個別化した人間を世界に結びつけるのに、ただ一つ有効な解決方法がある。すなわちすべての人間との積極的な連携と、愛情や仕事という自発的な行為である。それらは・・・人間を自由な独立した個人として、再び世界に結びつける」(p45)
「われわれは先に、消極的な自由はそれだけでは個人を孤独にすること、個人と世界との関係は、疎遠な信頼できないものとなること・・・を述べた。自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。というのは、人は自我の自発的な実現において、彼自身を新しく外海に――人間、自然、自分自身に――結び付けるから。愛はこのような自発性を構成するもっとも大切なものである」(p287)
つまり互いに愛し合うという動機をもった自発的な他者に対する活動こそが、肥大化する自我と、その結果としての虚無や孤独から人類を解放する一番優れた道だというのです。
依然として残る問題
刹那的な遊興などによる逃避、ましてや戦争に走ることが真の解決策でないことは言うまでもないでしょうが、上述したどの解決策も完璧なものではないように思われます。例えばあなたという「自我」は現象であって、実存ではないと言われたり、あなたではなく遺伝子(DNA)こそが生命の主体であると言われたりしても、「なるほど、それは良かった!!」とは手放しに喜べないでしょうし、自然と交わることが有益なのは賛同できるとしても、それだけで全ては解決しません。やはり隣人同士が、相互承認し合ったり、共にスポーツやその他の活動をしたり、愛し合うというのが最善の道だと思いますが、それでも依然として残る問題があります。
それは自分という「自我」が虚無・孤独であるのなら、同様の人類が何人寄り添っても、本質的には虚無・孤独であるということです。ゼロに70億を掛け算しても、依然としてゼロであると同様に、いくら私たちが全人類とお互いに存在意義を承認し合ったとしても、「自我」の本質的な不安・虚無・孤独性はそのまま残るのです。
神との和解
ではどうすれば良いかといえば、隣人と相互承認し、共にスポーツや社会的活動を通して交流し、愛し合うことに加えて、あなたを愛し造られた大いなる存在、すなわち神の愛を受け、神を愛する道に帰ればよいのです。「自我の発芽」のゆえに神から離れたのであるなら、その神に素直に回帰するということです。
このことは、思春期に自我を確立するために親を否定した子たちが、時を経て親の愛に気付くことに酷似しており、自分の故郷から都会に出た人々が、故郷(ふるさと)に里帰りする心情とも通じるでしょう。
ある意味で、思春期の子どもたちが親を否定するというのは、自我を確立するためには必要なプロセスであるように、人類が神を否定してきたことも歴史の必然だったのかもしれません。しかし成人した子どもたちが親の愛に気付き、和解して関係を回復するように、私たちもいつまでも親に反抗し続けたり、神を否定し続けたりすべきではないでしょう。
そして神に帰る時に、私たちは自ら神のようになろうとしなくても、神は喜んで私たちを神の子としてくださり(ヨハネの福音書1:12)、また神のご性質にあずかる者としてくださると約束されています。そしてこの神に一方的に愛されるという体験を経て初めて、私たちは真に隣人を愛することができ、また自分自身をも愛することができるのです。結果私たちは、神の中で成熟した真の自我を確立しつつ、肥大化した幼稚で利己的な自我の孤独と虚しさからも解放され得るのです。
「(神の)その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」(Ⅱペテロの手紙1:4)
※1『宮村武夫著作〈6〉主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ―ドストエフスキーの神学的一考察』(2013年)ヨベル
※2鹿嶋春平太(2014年)『自己神欲が諸悪を産む』 [Kindle版] 鹿嶋肥田ブックス
※3ホルスト・E・リヒター(1990年)『神コンプレックス』森田孝,光末紀子ほか訳、白水社
※4姜尚中(2008年)『悩む力』集英社新書
※5エーリッヒ・フロム(1965年)『自由からの逃走』日高六郎訳、東京創元社
※6養老孟司(2014年)『「自分」の壁』新潮新書
※7リチャード・ドーキンス(2006年)『利己的な遺伝子 <増補新装版>』日高敏隆,岸由二ほか訳、紀伊國屋書店
※恐縮ではありますが、先生方の敬称を本文中は略称「氏」と統一させていただきました。
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山崎純二(やまざき・じゅんじ)
1978年横浜生まれ。東洋大学経済学部卒業、カナタ韓国語学院中級修了、成均館大学語学堂(ソウル)上級修了、JTJ宣教神学校卒業、ブルーデーター(NY)修了、Nyack collage-ATS M.div(NY)休学中。韓国においては、エッセイコンテスト「ソウルの話」が入選し、イ・ミョンバク元大統領(当時ソウル市長)により表彰される。アメリカでは、クイーンズ栄光教会に伝道師として従事。その他、自身のブログや書籍、各種メディアを通して不動産関連情報、韓国語関連情報、キリスト教関連情報を提供。著作『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)、『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』(トライリンガル出版)他。本名、山崎順。