1896(明治29)年、日本が日清戦争に勝利した翌年の暮れ、内村鑑三は一篇の詩を書きました。その詩のタイトルは「寡婦(やもめ)の除夜」。次のような一節から始まります。
月清し、星白し、
霜深し、夜寒し、
家貧し、友少し、
歳尽きて人帰らず
内村はこの詩の中で、戦地で戦死したために決して帰ってくることのない夫を待ち続ける一人の婦人の姿を描きました。この詩の表題には「軍人が戦勝に誇るを憤りて詠める」とあります。戦争の勝利を軍人たちが喜ぶ一方で、涙している妻たち・母親たちがいる矛盾に内村が激しく憤っていることが分かります。
この憤りは同時に内村自身に対する憤りだったと思います。なぜなら、戦争が始まるまで内村も日清戦争を「義戦」として肯定していたからです。戦争が人々を高慢にし、道徳を腐敗させ、真理があいまいにされる戦勝の結果を目の当たりにして、内村の考えは大きく変わりました。それ以後、内村は徹底した非戦論者となります。
ただし日本全体としては戦争に勝利して、国力が強まったことを歓迎する人々が大半だったようです。その傾向は日露戦争時にさらに強まりました。敵国ロシアとの戦争に国民全体が興奮し、日本海海戦の勝利に、日本中が熱狂に包まれました。その中で内村は「非戦論」を唱え続けるのですが、大半の国民は「世界の一等国」となった自らの物語に酔いしれました。
その行き着く先に、15年戦争の悲劇があります。満州事変から太平洋戦争終結までのわずか15年ほどで、数千万人にも及ぶ膨大な人々が殺され、自国の人間だけで300万人もの犠牲を生じさせた未曾有の悲劇は、どこから始まったのでしょうか。
その悲劇があったからこそ、われわれの先輩たちは非戦の誓いを立て、平和主義という世界にほとんど類のない憲法を受け入れたのではなかったでしょうか。そして、一時の気分や単なる思いつきによって憲法が簡単に変えられないように、3分の2以上という改正条項が作られたのだと思います。
その憲法を変えようとする動きが今、顕著です。憲法は絶対的なものではないのかもしれません。それでも、それまでの歴史があまりにも軽んじられていないでしょうか。参議院選挙を前にして語られる「日本を取り戻す」「経済の再生」「ねじれの解消」といった勇ましい掛け声が、あまりにも軽々しく感じられてしまいます。
「御国を来たらせたまえ」「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と、ただただ、祈るばかりです。
(『みずさわ便り』第99号・2013年7月14日より転載・一部編集)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)
◇
若井和生(わかい・かずお)
1968年、山形県生まれ。1992年より国立フィリピン大学アジアセンターに留学し、日比関係の歴史について調査する。現在、岩手県の水沢聖書バプテスト教会牧師。「3・11いわて教会ネットワーク」の一員として、被災地支援の働きを継続中。妻、8歳の息子と3人家族。