私たちの教会では毎月第4日曜日に一関で礼拝を持っています。また花泉や川崎の信徒宅でも時々集会を開いています。そんな私たちの取り組みを知った方より一関について尋ねられ、こちらからも説明する機会が最近増えたように思います。そこで私もあらためて一関がどんな町でどんな地域なのか、調べてみることにしました。
毎月の礼拝は一関市城内の福祉センターの一室が会場です。「城内」という地名が示している通り、そこにはかつて一関藩主・田村氏の住まいがありました。初代藩主は江戸時代の1682年に岩沼から領地替えとなってこの地にやってきた田村建顕(たてあき)です。この田村建顕の下、現在の一関市の町割りが完成したといわれています。
一関藩は仙台藩62万石の中から3万石を分けてもらって分家した分家支藩でした。よって一関の統治を委ねられたといっても、仙台に対する従属と忠誠が絶えず強いられる関係でした。藩の財政はいつも赤字続きで、経済的にも仙台藩の後ろ盾がなければ存続できないような厳しい状況でした。一関の仙台とのつながりがいまだに強い理由がよく分かります。
ただし田村建顕は本藩への従属を強いられながらも、独立した一関藩としての誇りを保ち続けようとしました。建顕は幼少の時から漢字、書、絵画、茶道、能、和歌などに通じる文化教養人で、家臣に文武学問を奨励。学問立藩としての道を志しました。建顕は、近江国を父祖の地とする初代建部清庵(たてべ・せいあん)をも召し抱え、地域医療の充実にも取り組みました。
私が感心したのは、建顕が毎年12月に遺書を書き替える習慣を持っていたという点です。遺書は4通あり、そのうちの一つは仙台の将軍家に対するものでした。その中で、将軍家よりたびたび受けてきた援助に対しての礼を述べ、田村家の子々孫々までの相続をお願いしたそうです。
田村建顕の人生を概観しながら、自らに負わされた使命をよく理解し、それを忠実に果たした人であったことに気付かされます。それは田村家を存続させ、委ねられた一関地域の発展に尽くすという使命です。そのために本藩である仙台伊達家を主と仰ぎ、最後まで主に対する忠誠を忘れませんでした。
同時に自らを鍛錬することを忘れず、家臣にも学問を奨励し、一関の課題に共に取り組めるように努力しました。臣下から信頼され、後代にまで語り継がれるリーダーだったようです。誇り高き一関の気風は、この当時から始まっていることに気付かされました。
(『みずさわ便り』第106号・2014年2月9日より転載・一部編集)
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